追想――篠原勝さん

『アメリカ時間の観音寺暮らし』の原稿を読み返してから、
ずっと、何度も何度も、
篠原勝さんのことが脳裏によみがえってくる。

カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本権力構造の謎』の翻訳者。

わたしと同じ池のほとりで少年期を過ごした人。
(18歳違いだったので、わたしが池のほとりに生まれたころに
その池のほとりを離れたのかもしれないが。)

樺美智子さんが亡くなった、あの国会前デモに参加した人でもあったか。

仕事にかぎらず、
暮らしのなかでもあらゆる方面で、自分にとっての「美」にこだわり、
いっさい妥協せず、
声を荒らげるときには声を荒らげ、
しかし、その後に自分の内面に沈潜する期間ももち、
まさに、わたしにとっては、
戦後の日本の文化人がどういうものであったか、
それを体現したような人だった。

山の、水が湧いてくるところには、
地下に水がたまっている。

どこの水は成分がどうで――といわれるように、
水の素性、よってきたるところは、
その場所その場所でみな違っている。

人間から湧き出す言葉にも、同じようなことがいえると思う。

なぜ言葉を発するのか。
なぜ言葉を発しないではいられないのか。
それはね、ほら、あそこの池のほとりに大きな木が立っているだろう――
そういう話の展開のしかたをすると、不合理、
あるいは非現実的、あるいは超常的と思われるかもしれない。
でも、あふれかえる言葉を内面にかかえる身にとっては、
そういうところに、すっと収束していくものがあるような気がする。

なにを「美」と思うか、
なにを「理不尽」と思うか、
そういうことはみな、
まだ物心がつかない時期までさかのぼり、
その人の目に映った光景のなかで、
山がどういうかたちで、どのへんまで視界をふさいでいて、
どこにどれだけの水がどういうふうにたまっていたか、
そういったこととまったく無縁ではないと思う。

だから、自然は大切なのだ。

緑が多いと光合成で二酸化炭素を吸収して酸素をいっぱい出してくれて――
なんていう機械的な理屈は、
表面、あるいは末端でしていればいいことだ。

わたしたち、この世に命をうけてくるものは、
地面に根を張って立っている木を見ればよくわかるように、
みな、根をとりまく状況からはいってくるものを吸収し、
それらが自分のなかでからまりあって生まれてきたものを
外に向かって発散する伝達者であり、表現者だ。

篠原さんとは、
その自分の言葉や行動のよってきたるところの記憶や手応えにおいて、
とても共感できるところがあった。

あるとき、
やはり同じ池のほとりで育った別の人が
わたしの言葉に共感してくれたことがあった。

東京でいっしょに飲んでいたとき、
わたしがその池のことを店の人に説明しようとして、
「その池はね、ちょっと、そんなに小さくはないんだよ」だったか、
正確な表現は忘れたが、
ほんの少し間を置きながら、そんな表現をしたときだった。

なんでもない言葉、ふつうのテキトーな話し言葉だ。
でも、そのいいよどみかたや、
ほんの少し「小さくはない」という言葉にこもった力、
そういうところに、
同じ土壌に根を張り、
そこ独特の自由を感じ、不自由を感じながら育った木のあいだで
共感できるものがあったのだ。

篠原さんが育った家には、
メタセコイヤかなにかだったのだろうか、
池の対岸のわが家のほうからも見える
一本の巨木が立っていた。

そこに育った人が、
わたしが生まれたころに東京に出て、
仲間の学生たちとアメリカに追従する政府に対する義憤をぶつけ、
議論をし、
本をつくり、
詩人たちと交わり、
わたしが巣立って仙台へ出ていくころに、
まだもちろん連絡船でしか行き来のできなかった四国に戻り、
わざわざ、出版をするには手足を縛られたような環境のなかで、
なおかつ本をつくりつづけ、詩人たちとの交流も続け、
自分の感性のおもむくがままの生きかたを貫いた。

なぜ、なんで、という問いかけはしたことがない。
わたしにとっては、すべてがそれだけで納得だった。

そんな篠原さんのなかに、
わたしにはわからない要素のひとつとしてあったのが、
『アメリカ時間の観音寺暮らし』のなかにも書いた「台湾」だった。

戦時中に自分だけを内地に残して台湾の小学校に赴任した
おとうさんへの、口には出さない「なぜ」の問いかけが、
最後にいっしょにドライブをしたとき、
海岸から赤く染まった西の空を見つめる篠原さんの背なかには、
いまさら分かつことも解くこともできない人生の謎として
あふれているように思えた。

でも、篠原さんはおとうさんのことが大好きだった。
篠原さんと話をしていると、すぐにおとうさんの話が出てきた。
「ったく、おやじのやつは……」という口調なのだが、
そこに深い愛情があるのは、まがいようもなかった。

そして、ずっと世話をしてきたそのおとうさんが亡くなり、
一周忌が近づいたころ、
「近ごろ、手がしびれるんですよ」といいだして、
さては脳梗塞が起きかけているのかとあたりをつけ、
何度も病院に通ってMRIを撮ったりなにかしていた。

結果は、どれも「異常なし」。

でも、おとうさんの一周忌が過ぎたとき、
「篠原さんが亡くなった」という、まさかと思う連絡がはいった。

手をしびれさせていたのは、
脳梗塞ではなく、心筋梗塞のほうだった。

MRIの検査にもかけつけていたわたしとしては、
自分の不明、視野の狭さを責めたくなる結末だった。

命日もおとうさんと同じ。
ちょうど一年目の命日に開いた法要が終わったあと、
来てくれた人たちを車で送っていったあとの異変だった。

ほんとうに惜しい人だと思う。

日本も「地方分権」をいうのなら、
予算がどうのこうのという話をする前に、
まずああいう人を数多く育てなければならない。

何度も四国の山へのドライブに誘ってくれた篠原さんのことを思い出すとき、
いつも、ある秋の日、
祖谷渓谷の奥でアレックス・カーさんたちがやっている
クラフト村へ行ったときのことを思い出す。

うねうねと続く山道を車でのぼっていくと、
道端に白い蕎麦の花がびっしりと咲いて揺れている一画があった。

さわやかな秋の風に揺られながら、山の奥にひっそりと咲く白い蕎麦の花。

なにやら篠原さんの人柄を映したような光景で、
いつまでも篠原さんの記憶とくっついている。

(なお、『アメリカ時間の観音寺暮らし』をごらんになるかたには、
50話もあるので申し上げておきますが、
篠原さんが登場するのは第42話から第45話までです。)

[PR]

by pivot_weston | 2011-07-01 04:31 | ブログ