Twitterのほうではすでにつぶやいたが、
前田和男さんの『紫雲の人、渡辺海旭――壺中に月を求めて』(ポット出版)
という本を読んでいる。
500ページを超える大著だ。
ただでさえ本を読むのが遅いわたしには、
そう簡単に読み通せるものではない。
でも、心地よい。
この本を開き、その世界にいる時間がとても心地よい。
著者の前田さんは、翻訳の世界の先輩に当たる人で、
わたしなどから見ると、
ある種の天才ではないかと思えるほど、
あふれるように言葉の湧き出してくる人だ。
以前、いっしょに翻訳の仕事をしていたときには、
その前田さんの、内なる言葉湧出力のほうが原作の世界を待てず、
どんどん躍りだして原作をベースにした前田ワールドが展開する、
という場面に何度か遭遇した。
若い人にはわからないかもしれないが、
いまや伝説の「安田講堂」の残党だ。
今度の作品は、そんな前田さんが若いころから書きたかった本なのだろうか。
かつての前田さんの文章を知る者からすると、
拍子抜けするほど語り口に抑制がきいている。
あれ、あれ、どうしたの、前田さん、そんなありきたりな表現でいいの?――
と思ってしまうところがあちこちにある。
でも、もしかすると、
書き手と題材がうまく整合し、ハッピーな関係で結ばれたときというのは、
こういうものなのかもしれない。
食い足りない教師ばかりに出会い、荒れに荒れていた少年が、
あるとき、お、なんや、このセンコー、こいつちょっとちゃうなあ、
と思う教師に出会ったとたん、
あらゆる方面に向かって素直に才能を開花させていく――
そんな現象にたとえてもよいのかもしれない。
そういう生徒が背後にかかえている世界というのは、
恐ろしく豊かだったりする。
前田さんが背後にかかえている世界が恐ろしく豊かなのは、
そういう例から類推するまでもなく、
わたしはじかに、肌で知っている。
にわかには暮らし向きに跳ね返ってこない、
緻密で長い調査や取材の裏打ちもあるのだろうが、
題材と整合し、ハッピーな関係で結ばれた前田さんの繰り出す文章は、
明治初期の浅草界隈や本郷の風景を
そこに吹く風の感触や、日に照らされた空気の感触のようなものも添えて
伝えてくれる。
明治20年の前後。
山梨では、
わたしがフォローしてきたルミエールの塚本俊彦さんの曽祖父、降矢徳義さんが
京の守護から戻って、はて、なにをしよう、と考えたところで、
西洋伝来の葡萄酒の醸造をはじめたころ。
四国では、
わたしの祖父・象一郎の祖父・竹造が博打で全財産をすって、
のちの子孫一同から、なんだかなあ、と思われる顛末を起こしていたころだ。
なるほどな、と思う。
当時の日本は、こういうふうにして動いていたのか、とも思う。
のちに高僧にして稀代のアイデアマンの渡辺海旭になる、
浅草の没落士族の流れを汲む貧乏所帯の子倅、渡辺芳蔵が
激動する社会の片隅で自分の生きていく道をさがしながら、
浅草や本郷の道を歩いていたときの足音までが伝わってくるような気がして、
現代の、ビルの下のきれいに舗装された歩道を歩いていたのではこうはいくまいな、
などとも思う。
ともあれ、楽しい時間。
大著なだけに、まだしばらくそんな時間が味わえるのはうれしい。
本を読むのが遅いことにも、いいところはあるわけだ。