オリーブ橋、ひとつのケース

なぜだろう、
ここ数日、義兄のことが頭をよぎる。

わたしと違い、
もともと口数の少ない人ではあった。

四国から仙台の大学にはいって2年目の暮れ、
「お正月にねえちゃんが結婚することになったから、帰れ」
という連絡があった。

ふぅん、てなもんだ。

大学から特待生の誘いがあった姉に進学を断念して大学に行かせてもらったくせに、
姉の人生を斟酌してその知らせの意味をかみしめるやさしさもなければ、
そもそも「結婚」という行為を人のまじめな営みとして理解しようとする
姿勢すらなかった。

そのせいか、
同郷の義兄の実家の近くの神社で行われた結婚式でも、
義兄の記憶は、ほとんど残っていない。

境内の一角にあった披露宴会場の前で
花嫁衣装姿の姉といっしょにならんで笑顔で写真におさまっているところくらいか。

不思議な光景だった。

姉は、ま、いちおう女だが、
学校一の不良の番長とも「腕」で勝負に行くような人。

3つ下で、中学で重なることのなかったわたしも、
卒業したその姉の威光で、
文句をつけに来た先輩の番長グループがあとじさりしてくれる
光景を何度か目の当たりにした。

だから、小柄だが、怪力の砲丸投げの選手で、
そんな野蛮な世界にもにらみがきいた姉のとなりで、
やはり小柄で、なんともやさしそうな義兄が
それからの人生の伴侶としてにこにこしている光景は、
砲丸の代わりに投げ飛ばされて育った弟としては、
なんとも不思議な光景だった。

もちろん、とはいえ姉とは仲のいいきょうだいだったので、
その結婚式のころの一見も二見も無関心に見える態度は、
ただの、なんとかの裏返しだったのかもしれない。

ふたりが結婚後に住んだのは当時の義兄の勤務地、栃木県今市市で、
四国と仙台のあいだを往復していたわたしにとっては、
とても立ち寄りやすい場所だったのだが、
にわかには立ち寄ろうとしなかったように記憶している。

わたしもふたりきょうだいの弟なら、義兄も三人きょうだいの末っ子。
わたしも四国の出身校ではほかの人があまり行かない仙台の学校を選んだ人間なら、
義兄もまだそこより先の、津軽海峡を越えた北海道の大学にはいり、
ひとりで汽車の通路に新聞紙を敷いて寝っころがりながら行き来した人。

お互いにあまり人と接するのは得意なほうではなかったこともあったのだろうか。

でも、壁を隔てて存在する似たような空間というのは、
壁がとれたときにさしたる抵抗もなにもなく混ざり合えるもので、
一度、今市のふたりの新居の借家に遊びに行って泊めてもらってからは、
わたしが宇都宮を通るたびに途中下車するようになった。

義兄は車の運転が好きらしく、
行くと必ず、日光のいろは坂や、中禅寺湖や、男体山や、杉並木や、
そういうところへつれていってくれる。
そして、その途中でどこかの体育館のようなところに立ち寄ると、
バスケットボールや卓球をするのだが、
これが、なにをやってもうまい。
わたしにとっての「スポーツの王様」のような存在だった姉を
軽~く一蹴してしまうくらいうまい。
そして、きわめつきがギター。
学生運動全盛期の人だ。
かの、北大名物・恵迪寮でも肩まで髪を垂らしてジャカジャカやっていたらしいのだが、
わたしが遊びに行って、みんなでビールを飲んでいるうちに、
あまり自分から弾こうとすることはないのだが、
一度聴かせてもらったものをこちらがもう一度聴きたくて、聴きたくて、お願いすると、
きれいなつやのあるギターを取り出して、
いろんなフォークナンバーを、譜面もろくに見ずに、
いや、譜面に書いているような弾きかたではなく、
まさにそれをうたっているプロの人たちの演奏のような弾きかたで
次から次へとやってくれる。
そして、その声がまた、澄んでいて、とても美しい。
いまでも、あんなにきれいな声は聴いたことがない、と思うくらい美しかった。

義弟のわたしからすると、とにかく、
なりは小さいし、知らない人の前ではとてもおとなしいしなんだしするのだけど、
実は、なんでもできる人、しかも、なんでもハイレベルにできる人、
といってもよい存在だった。

その人が、かつての大企業の技術者のつねといってよいのか、
その後、奈良県御所、滋賀県大津、大分県宇佐と転勤を重ねた末に、
もうこれ以上は転勤したくないという意思を表明し、
大分県の地元の企業に転職して、また技術職を続けていた。

わたしの妻ががんを発症し、闘病していたころも、
何度も車でフェリーに乗って四国まで帰ってくれた。

そんな義兄が、わたしの妻が亡くなって何年かたったころ、
人に会いたくない、といって、あまり顔を見せなくなった。

もともと人づきあいの得意な人ではなかったので、
姉もわたしも、まあそうなのだろうと思っていたのだが、
それが、あとになってみると、ひとつの兆候だった。

もう6年前になるだろうか、
「オリーブ橋小脳委縮症」という診断名をはじめて聞いたのは。

50代くらいの人が発症することが多く、
20年ほどかけて少しずつ体が動かなくなっていく病気――
そのころ、調べたときには、そういう特徴がわかったのだったか。

その義兄が、まだ診断後6年ほどなのに、
もう姉と目の動きでしかコミュニケーションができない状態になっているという。

病気というのはどうしてこういう発現のしかたをするのだろう。

10年近く前、神戸のあるがん患者の会の主宰者のかたのお宅におじゃましたときも、
その1年前まで新聞記者としてバリバリ働いていたそのかたの旦那さんが
若年性の認知症を発症されてお宅で小さく肩をすぼめておられるのを見て、
同じように感じたことがある。

なんでもできる状態からなにもできない状態に変わった人の
内面で起こること。
でも、そんな事象をそばでつぶさに感じとっている姉は、
自分では昔の砲丸投げを再開し、
義兄とは、お互いの強烈なひいきチーム、広島カープと阪神タイガースのことで、
いびったりなにかしながら、
義兄が「ここ以外にどこにも行きたくない」という
笑いのある家庭を保っている。

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