アートと自由

いまはアート関係の本の翻訳に取り組んでいる。

最近の若い人たちは自由に感性を表現している。

さっきもテレビを見ていたら、
壁の素材を塗ったところで
なにかのかけらのようなものをそこにくっつけ、
ひとつのアート表現にしている人がいた。

いまでもよく思い出すのだが、
わたしが子どものころには(わたしが育った地域だけの問題かもしれないが)
そんな自由を認める雰囲気がなく、
6年生の図画工作の時間に校外で写生をさせられたとき、
ふつうに風景を描いたのではおもしろくもなんともないじゃないかと思い、
しばらく農村集落の用水路のわきで友だちとふざけ合いながら
ああでもないこうでもないと考えた末に、
筆をすーっと動かすオーソドックスな色のつけかたではなく、
点々と画用紙に筆をぶつけるような色のつけかたをしてみようと思い、
画面全体をそんな調子でしあげた。

けっこう現実離れした野心家の子どもだったので、
おゝ、これはいいぞ、もしかしたら新しい絵の描きかたを発見できたかもしれん
――などと内心では思っていた。

担任の先生も驚いてくれるのではないかと思っていた。

ところが、時間が過ぎて、その絵をもって自信満々で学校に戻ったら、
それを見た担任の先生から、いきなり、
「きたないなあ。なにを遊んどんな。まじめに描きなさい」
といって怒られた。

写生現場では、もしかしたら世界的な傑作になるかもしれん、
などと、野心家の子ども心に思っていた絵にも、
もちろん、一瞥はしても二瞥はしようとしない。

きわめて深く傷ついた。
なぜ自由を認めようとしないのか。
絵の描きかたなど、自由ではないか。
決まった描きかたしか認めずに、どうして絵の発展が望めるのか。
きわめて強い憤りをおぼえた。

もちろん、現実的には、
ほかの生徒と違う手法で描いても、
先生をうならせるだけのものを描けなかったわたしの才能のなさが問題なのだろう。

しかし、あのとき、できはつたなくても、表現の自由を認めてもらえていたら、
わたしはその後、絵など描かなくても、
生活のなかのいろんな場面で
伸び伸びと気楽に自分の感性を表現できていたのではないかと思う。

第一、子どものわたしが世界で自分が初めて発見したように思っていたその手法は、
あとで世界の絵画の名作などを見たら、
昔からいろんな絵描きさんたちがやっていたものだった。

それを否定して、校長かなにかになって教員人生を終えた人が、
いま国家の予算で十分な年金をもらっているのかと思うと、
なんなのか、とも思う。

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by Pivot_Weston | 2011-06-05 22:19 | ブログ