菅さんの問題

近ごろでは、マスコミは菅さん批判一色、一辺倒だ。

民主党議員のなかにも、
党代表の非を証明する確たる証拠をさがすのに
労力を費やしている議員などがいたりする。

わたしは議員秘書をしていたころ、
代表選のさなかに党所属議員の事務所訪問に来た
菅さんと握手をして言葉を交わしたし、
小沢さんともお会いしたが、
菅さんや小沢さんのことを個人的に知っているわけではない。

ただ、
現体制を批判するグループのなかには、
震災に関する政府発表やマスコミ報道を「大本営」になぞらえる
人たちもいるみたいだが、
わたしの視点から見ると、
一色、一辺倒になるのも「大本営」チックに思えるので、
あえて違う見かたも書いておきたい。

そもそも、日本政府のガバナンスの問題は政治家だけの問題だったのか。
旧政権のころは、官僚機構にもけっこう批判の矛先が向かっていた。
ところが、最近はなにかにつけて、すべて悪いことは菅さんのせいにする
傾向が強まっているように感じる。

わたしたちが若いころの戦争責任論争のように、
やれ、天皇のせいだ、いや、軍部のせいだと、
特定の個人やグループのせいにしてものごとを総括しようとするのは、
当時の日本のように、
まだどこかに「大目に見てもらう」側面をかかえる集団、
つまり、途上の集団に許される行為だ。

アメリカはもっと広い視野のなかで
そういう論争を繰り返す集団を黙って見ていた。

そのアメリカから、昨日、
バイデン副大統領の奥さん、ジルさんの名で、
メモリアル・デーのメッセージが届いた。

5月の最終月曜日の戦没将兵追悼記念日だ。
過去の戦没将兵たちがいまのアメリカ国民にとって
いかに尊い存在であるかが書いてある。

で、思った。

もちろん、指摘のできる虚偽や欺瞞はごまんとあるだろうが、
それでも、こういう通りのいいコミュニケーションは、
これまでの日本にはなかったことではないか、と。

そういう風土のなかに、いまの菅さんは立っている。

裏に虚偽や欺瞞はいつまでも残存するにせよ、
せめて表向きは通りがよさそうに見える国民と統治者とのコミュニケーション、
それすらもなかった日本の統治機構の上に立ち、
はいってこない情報や動かぬ組織にキリキリしながら、
その結果を問われる立場。

そういう立場の人を、責任者として批判するのはいいにしても、
では、それ一色、一辺倒にするのもいいかというと、
わたしはどうも疑問を感じる。

ほんの少しの期間だが、日本の政治システムのなかにいて、
この国の政治や役所のしくみも確実に変化しているように感じた。

それは、タガがはずれたからだ。
政権交代によって、過去60年あまり、この国を固定してきたタガがはずれた。

ひとつの形に組み合わされていた積み木がばらけて、
別の形に組み変えられようとしているようなものだ。

はずれ、ばらけたことによる手抜かりはいろいろと発生する。

だが、だからといって、
過去の感覚を手がかりにカチッとまとまったしくみをつくろうとすると、
またもとのかたちに戻るだけだ。

フランス革命をはじめ、過去の大きな国家の変革期をふりかえると、
国の統治機構が、タガがはずれ、ばらけたときに、
それによる不都合を処理する方法としては、
ある程度までは国民なり市民なりが負担するのがいいのではないかと思う。

議員事務所にいると、おもな業務は、
陳情に来る人たち、つまり、
俗にいう「既得権益者」たちのお相手だった。

国家予算になど依存せずに生きている人たちは
そもそも国会議員の事務所になど来たりはしないし、
ほんとうに困っている人たちも、声をあげて来ることはあったが、
票のためにその場ではいい顔をしてもらえることはあっても、
裏では、「ああいう人たちはあれでいい」という扱いをされていることが多く、
俗にいう「既得権益者」たちとの会食や集まりばかりがセッティングされていた。

永田町の価値観は、
そういう既得権益者と政治家と官僚とマスコミ記者たちとの
日常会話のなかではぐくまれている。

そういう風土をさらなる変化へ向けて切り換えていくには、
国民がある程度の不都合は受けとめ、変化を支えていくことではないかと思う
のだが。

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