自然エネルギー

どうやら人気が高まっているらしい。

原子力発電のように
山かどこかから掘り出してきた材料物質を精選して加工してつくりあげた燃料に
人為的に反応を起こさせて、
人体に有害とされる放射性物質のようなものを生み出したりせず、
ただ自然界にあるものを利用するだけなので、
どこにも、だれにも悪い影響はおよぼさない、
これこそ理想的なエネルギーではないか、
ということだろうか。

いまから35年ほど前のオイルショック後に、
同じようなことが考えられ、
四国のわが家の近くの仁尾町という海べりの町に
乾いた瀬戸内の日差しを浴びてきらきらと輝く
大きな鏡のパネルがずらりと設置されたことがあった。

「サンシャイン計画」――旧通産省のいわゆる「国プロ」、国家プロジェクトだ。

当時の自民党行政のつねで、
近くには「サンシャインランド」という小さな遊園地がつくられ、
その遊園地のかわいいジェットコースターの鉄がまださびないころだったか、
仕事をしていると、翻訳の仕事だったか、要約の仕事だったか、
アフリカのサハラ砂漠に大きな太陽熱発電パネルを設置する
壮大な計画があることを伝える記事をわたされたことがあった。

わかりやすい。
わたしたちのイメージのなかでもっとも太陽の光にあふれる世界はどこか?
煎りつける日差しに岩が粉々に砕かれ、
一面の砂の海と化してなお明るい日差しを反射しているサハラだ。

でも、待てよ――と、だれだって思うだろう。

サハラは、あの日差しを反射しているからサハラだ。
そこに一面に太陽熱発電パネルが設置されると、
パネルの上から見たサハラは相変わらず
日差しにあふれる世界のままのように見えても、
パネルの裏のサハラは、
一転して光のない砂地に変わるのではないか。

だとしたら、そのときはサハラの地温に変化が生じ、
大気の対流が変わってきて、気候も変化し、
気候というのは
地球全体の空気がひとつにつながって凹凸を調整して起きている現象なので、
あのサハラが鬱蒼とした密林に変化してどこかよその
いまは緑につつまれている地域が砂漠化するような
予想もしない現象が起きてくるのではないのか――
そう思った。

原子力発電だって、
大きな視野で見れば、自然界のエネルギーを利用する行為に変わりはないが、
狭小で卑近な視野で見ると、
自然エネルギーを利用するということは、
自然界に露出したかたちで存在するエネルギーを人間さまがインターセプトして、
自分たちの都合のために使わせてもらうということ。
原子力発電のような非自然エネルギー利用は、
自然界に露出したかたちで存在しない埋もれたエネルギーを
人間がせっせと精選したり加工したりして
せいいっぱい誇張してとりだせるようにして利用させてもらうということ。

なにか、ともすると、
自然エネルギーは環境にやさしいエネルギーのような語られかたがしているが、
かりに人間の手が加えられていない自然を望ましい環境とするのであれば、
実際はまったくの逆で、
いまもてはやされている自然エネルギー利用こそ、
自然界に露出して存在するエネルギーをもっとも多く収奪し、
人間の手が加えられていない自然をもっとも大きく変化させる行為であり、
原子力発電は、
人間の手が加えられていない自然に極力影響がおよばないように、
人間の労力でカバーしようとする行為だということ。
その点は、絶対に押さえておかなければならない。

かりに、現在の原子力発電所の設備容量に匹敵するだけの発電能力を
太陽光発電や風力発電でまかなおうとすれば、
そのときは、わたしの脳裏に浮かんだサハラのように、
自然界の環境が少なからず変化し、
わたしたちの暮らしに新たな脅威を差し向けてくるのではないか。
わたしは能天気な自然エネルギー讃美に触れると、いつもそう思う。

今回の震災がなにより究極においてわたしたちに語りかけているのは、
人間の存在なんて、この自然界や宇宙の前ではちっぽけなもの、
わたしたちはこの宇宙という壮大で不安定きわまりない世界に生きているのだよ、
人間が自分たちの好き勝手にできることなんて知れているのだよ、
ということ。

その震災の教訓を生かすために
自然界に露出して存在するエネルギーをもっとも多く収奪する
自然エネルギー利用の道を選ぶというのは、
心情的には理解できても、もっと慎重に考えたほうがよいこと、あるいは、
もっとしっかりと覚悟を決めて臨んだほうがよいことではないか、
と思う。

孫悟空の話にたとえると、
わたしたちはいま、大きくて、大きくて、とても手とは思えない、
大仏さまの手にぶつかったようなもの。
あまりに相手が壮大なので、なにがなんだかわけがわからなくて、
いろいろともちあがる不都合を、やれあいつのせいだ、こいつが悪いといって、
卑近なところに原因を求めて合理化するのも、
人間の自然な心情としては理解できるが、
いまわたしたちに求められているのは、これを機会にもっと大きく視野を広げ、
しっかりと大仏さまの手、つまり宇宙を見ることではないかと思う。

わたしたちはこの宇宙で、快適で安全な生存を保証された存在ではない。
謙虚に、自分たちの存在の小ささを受け入れ、
自然界の現実と妥協していくことも必要ではあるまいか。

原爆を落とされてほどなくして、その爆心地からそう遠くないところで生まれ、
たび重なる中国の屋外核実験の灰をかぶりながら育った子どものひとりとしては、
国際的な基準だかなんだか知らないが、
確たる裏付けもなしに設定するしかなかったそうした基準をもとに、
東京あたりでシーベルト単位の数字で大騒ぎをしている人たちを見ると、
なんなのだろう、わたしたちの命とはなんだったのか、
あの人たちに整わぬ時代を生きてきた先人たちの命への敬意はあるのか、
とも思う。

ま、歴史はつねにこうして進んでいくものなのだろうが、
それで社会の実質が進んでいるかどうかはわからない。

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