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なつかしい世界(5)

自分の人生をうらんでいるときは、
ろくなことはない。

なにをやってもうまくいかない自分――
そう思っているから、
まわりの人はみんなうまくいっているように見える。

そんなときには、あまり人と会いたくないものだが、
このときのわたしには、
クリスマス・イヴの2日後に、会うしかないスケジュールがあった。

翻訳学校の、わたしが入門していた
山下諭一先生一門の忘年会だ。

吉行淳之介さんみたいにおれも若いうちに編集者の経験を――
なんて考えていても、
やはりわたしは、大学をやめて東京へ出るときの目標だった
翻訳者になる世界を、いつも基本に置いて、いちばんだいじにしていた。

それに、不意に生きていく手がかりをなくした
さびしさや心細さもあっただろうか。

でも、やはりろくなことはない。

もうおれなんか――というやけっぱちな気分もあっただろう。
そんな気分で忘年会に出ていったら、
やはりいちばん気持ちがやわらいで心地のいい仲間たちの空気に接し、
甘えたくなったところもあったのだろう。

わたしはあとさきのことも考えずに泥酔し、
2次会で行った高田馬場の飲み屋さんの2階から階段を転げ落ち、
前頭部に5針縫うけがを負って、救急車ではこばれた――。

と、記憶と言える記憶はそこまで。

時系列のうえで、そこにつながるのは夢の世界。
だから、ここではひとまず、その夢の世界はあとまわしにし、
そこから覚めるときのことから書いていこう。

てっきり自分はそこにいると思っていた。
ところが、急にその世界がぼやけ、
気がつくと、湿気をいっぱい吸った冷たい布団の感触があり、
足もとを見ると、
わたしの部屋に遊びに来たことなどなく、
そこにいるのが少し奇異にも思える翻訳学校の先輩が
ひとりでうつむいてすわっていた。

えっ、なんでこの人がここに――と思うと、
意識は、なにがあったのか――と過去をまさぐる方向へ向かい、
すると、いま見ていた夢の世界がその「過去」にほかならないことがピンときて、
へえ、人間の脳というのはこういうときに
現実にあったことをリプレイしたりするものなのか、と思い、
おもしろい、とも思った。

夢の世界では、わたしは救急車のなかにいた。
もしかすると、
あとで病院で手当てをしてくれた看護婦さんとの混同が起きていたのかもしれないが、
仰向けに寝たわたしの横には、白衣を着た女の人がいて、
わたしはその人の手を握り、泣いていた。

「ねえ、ぼく、死ぬんじゃないでしょう?」と訊いている。
その人はこちらを見ながら「大丈夫ですよ」と言って笑っている。
それでも、たかが5針縫う程度のけがで
大げさに死の恐怖におびえるこちらの気持ちはおさまらない。
「ねえ、ぼく、ここで死ぬわけにはいかないんです。
プロの翻訳者にならないといけないんです。
どうしてもならないといけないんです。
助けてください」と言っている。

女の人の顔は、やさしく、だけどどこかあきれたように笑っていた。

で、気がついたら、足もとに先輩――。

でも、わたしは、けがをしたわたしに付き添ってくださり、
部屋まで送り届けてくれて寝かせてくれたその先輩には、
お礼を言っても、その夢のことはなにも言わなかった。

恥ずかしかった。
泣いたのもそうだが、
「作家になりたい」ならいざ知らず、
師匠で作家でもある山下諭一先生から、叱咤の意味もこめられていたのだろうが、
「勉強したら誰でもなれるで」と言われていた翻訳者に
「なりたい」と言って泣いたことが恥ずかしかった。

でも、わたしは、文学や文章とはまるで畑の違う世界から飛び込んできていたし、
父親の期待も意識していたので、「どうしても」の思いがあった。

父は、わたしなどよりずっと文学や文章の世界を愛していながら、
田舎にいたこともあって、夢をかなえようとすることもできなかった人。
一族から「末は博士か」の期待を集めて物理学科に進んだわたしが、
やめて翻訳者になる勉強をしたい、と言いだしたときにも、
「おまえ、翻訳なぞと言わず、自分で書け」と言ってくれた人。
だから、人から見れば、いくら安易な夢だったにしても、
万が一にも、それを達成しないままに終わらせるわけにはいかなかった。

だから、誰にも話していなかったそんな内面を見せてしまったことも
恥ずかしかった。

でも、わたしの記憶では、夢の世界でリプレイされていたことにすぎなくても、
現実にやっちゃったこと。

そのときの救急車のなかには、
先の先輩のほかにも、もうひとり女の先輩が乗り込んでくれたらしく、
そちらの先輩からは、のちのち長く、
「ねえねえ、あなた、救急車のなかでなんて言ったかおぼえてる?」
「えっ、ぼく、なんか言ったんですか?(しらばっくれてる)
なんて言ったんですか? 教えてくださいよ、ねえ」
「ふふふ。やだ、教えない」
といじめられることになった。

ともあれ、気がついてみると、
あと1週間もしないうちに正月が来るという時期に、
頭を包帯でぐるぐる巻きにされて崖下のアパートの暗い部屋に鎮座していた。
3日前の朝には、意気揚々とそこを出ていったのに、
3日たったら、職を失い、会いたかった人にも会えず、頭をぐるぐる巻きだ。

なんだ、どうなってんだ、おれの人生?――と
ふふん、と笑いたくなる気持ちもこみ上げてきた。