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思い出すままに

Kさんという人がいた。

おかっぱ頭のおばあさん。
小柄で、やせていて、少し背なかが曲がっていて、
いつも歩行器を押して歩いていた。

妻が乳がん骨転移を発症し、最初に入院したころだ。

骨転移は脊椎が折れるところまで進んでいて、
病状が快方に向かわないかぎり、
上体を1°でも起こしたら、脊椎を通っている神経が麻痺する可能性があると言われていた。

その問題の病状が、薬が奏効したおかげで、
おや、快方に向かいかけたかな、と思えてきたころだった。

そういう経緯もあったので、
患者を散歩につれ出すなんてことは、思ってもみないことだった。

寝たままでも入れる特殊なお風呂に行ったあとだったか、なんだったか、
ともかく、なにかの流れでたまたま妻がストレッチャーに乗っていたときに、
ちょうど子どもたちも来ていたこともあり、
看護婦さんが「じゃあ、ちょっと、散歩にでも行ってきますか?」と言ってくれた。

おゝ、だ。
思ってもみなかったアイデアを授けていただき、
妻も、わたしも、たぶん子どもたちも、
それまでの「1°も起こせない」息詰まる状況から一気に解放されたような気分になり、
夢中になって病院のなかをまわった。

そんなころだった。

何度目かの「散歩」のとき、屋上の物干し場まで上がると、Kさんがいた。

妻と同室の患者さんだ。
膵臓がなく、胃もなく、腸も一部はなく……といった話は聞いていた。

でも、確か、わたしとはまだ一度も話をしたことはなかったと思う。
もちろん、4人部屋でいっしょに暮らす妻とは話をしていたみたいだが、
そんなこともあって、わたしに気を遣ったのか、
物干し場でお会いしても、すぐには声をかけてこられなかった。

でも、こちらは「散歩許可」がおりてまもなく、気分がふくらんでいた。
天気もよかった。
だから、なにも話をしないまま物干し場からおりてこようとして、
すれ違うときに、「ええ天気ですね」だったか、なんだったか、
ともかく、そんな通り一遍の言葉をかけ、そしたら、それがきっかけとなって、
しばらく話し込んだ。

以来、わたしとも、病室へ行くたびにお話をするようになった。

町の外れの、町営住宅のようなところでひとり暮らしをされているということだった。
娘さんがふたりいて、それぞれに孫もいて、
ときにはそのお孫さんたちが遊びに来ていることもあった。

やがて、上体を1°も起こせなかった妻がリハビリを始めることになった。
といっても、その1週間後にはがんばってすわれるようになった、なんてことはない。
まっすぐに寝たままの姿勢で30°まで体を起こすのにどれだけかかったか。

最初は「やったー!」と思った単細胞亭主も、
毎日妻についてリハビリ室に行くたびに、その上がらない角度が
胸に重みとなって感じられるようになってきた。

「ま、ええがな。ええがな。さ、みんな、今日もがんばっていこーぜー!」

そんなときに、なにをこぼしたわけでもないのに、
カーテンの向こうにいるKさんが、からっとした声で
唐突にそんな言葉を発することがあった。

「元気出していこーぜー!」の日もあったか。

「そうだね。うん、そうだ」と妻が同調する日もあった。

そして、そのへんの呼吸が飲み込めてくると、わたしも
「そ。そやそや、なんでもええがな。がんばっていこ。ははは」と笑えるようになった。

Kさんは、消化器系の臓器がほとんどなかったので、食べるのが苦手だった。
だから、わたしが行っているときも、子どもたちが来ているときも、
食事の時間が来ると、歩行器を押して自分の食事をとりに行きながら、
看護婦さんがいないすきを見計らって、「これ、食べて」と言って、
妻のベッドまで食事の皿をひと皿かふた皿もってくる。

まあ、病院食だ。こちらも別に食指が動いたわけではなかったが、
ぐいぐいと皿を差し出すKさんの顔を見ると、
「え、ええんですか。ありがとう」と言って、それを受け取った。

それを、しまった、と思ったこともあった。
Kさんの体は、自分では血糖レベルをコントロールできない状態にあった。
なんや、今日はKさん、妙に静かやな、と思っていると、
カーテンの向こうで低血糖のために昏睡状態に陥りかけていたことがあった。

でも、そういうときも、看護婦さんの処置で意識を取り戻すと、
また歩行器を押してカーテンの向こうから出てきて、
「へへ、死ぬとこやったわ。まあ、ええがな、ええがな。元気出していこーぜー」
と言いながら、どこかへ出かけていく。

30°までどうにか体を起こせるようになった妻が
また長い月日をかけて90°まで体を起こせるようになり、
歩く訓練も始めると、
初めて目にする立った妻の姿を見上げて、
「へえ、こんなおっけな(大きな)人やったんやな」
と言って目をまるくしていたが、
なにごともさらりと――を真骨頂とするKさんがまた歩行器を押して歩きだしたときの
うしろ姿はさすがに寂しそうだった。

1年間の入院期間を経て、一時は不可能かと思えていた退院を果たした妻と
お正月に近くの四国66番札所雲辺寺山にのぼったとき、
Kさんのところへお見舞いに行こうということになり、
おみやげを買って病院へ行ったが、
そのときには、Kさんは個室に移り、酸素マスクをつけていた。
その数日後に亡くなったと聞く。

さかんに笑顔で語りかけようとするわたしの手を引き、
あまり元気になった自分の姿を見せるのも――ということを思い出させてくれたのも、
Kさんの親友、妻だった。

すごい人は、世のなかのあちこちにいる。


by pivot_weston | 2009-06-14 08:50 | 人物