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草取りの楽しみ

 昨夏、ざっと35年ぶりにおじゃましたが、大学では、園芸部というサークルに所属していた。子どものころから、なにかというと遠い昔の豪農時代の話を聞かされながら、そのころには近所の田んぼと比べるとほんとうに「猫の額」ほどしかなくなっていた小さな小さな田んぼの手伝いをして育ち(水を張った田植えのあとの田んぼでの草取りはけっこう好きな作業だったが)、その田んぼもまだ世のなかのことがなにもわからないうちに借金返済のために売り払われたせいか、入学したのは理学部というところだったが、ずっと農業をしたいという希望をもっていて、入学してまもない大学のキャンパスで、チラシを持った園芸部の先輩に勧誘されたときに、「ああ、園芸部ですか。入ろうと思っていたんです」と答えたら、園芸部のサークル部室まで行く途中の階段を昇りながら、その先輩に「え、ほんと。園芸部だよ。ほんとうに入りたいと思っていたの。へえ、そんな人もいるんだ」と言われたのを、いまでも昨日のことのように思い出す。

 地味なサークル(昨夏、おじゃましたときも、世はガーデニングの時代を迎えたというのに、相変わらず同じような雰囲気を漂わせていたが)。別棟のとなりには、茶道や社交ダンスのサークル部室があり、わたしたちはいつも、花壇の地べたにしゃがんで、そのなかの通路を通って華やかなサークル部室に出入りする女子学生たちのスカートの可憐にひろがる裾のあたりを、いまにもよだれを垂らしそうな顔で、上目がちにながめているのが通り相場だった。

 ただ、世のなかには不思議なことがあるもので、当時の大学には(女子学生の比率が少なかったせいもあるだろうが)「学年のマドンナ」とでも呼べそうな人たちがいて、そういう人は、全学共通の図書館の男子トイレの落書きにもっとも頻繁にフィーチャーされていて、コンテストもなにもなかったが、モテなくてひたすら想像の世界で青春を謳歌するしかない男子学生のあいだでは、「XX年生のマドンナはあの子だよ」とうわさされていたのだが、どういうわけか、わたしが在学していた時期には、各学年の「マドンナ」とうわさされていた女子学生たちがみんな園芸部にそろっていた。

 といって、なにか役得があったわけでもない。「マドンナ」さんはたいていたまにしか部室に来ないし、ほかの女子部員も、花壇に出ても「わ~、ナントカの花だ」「カントカの花だ」と言って、元気あふれるはたち前後の男子学生の体には毒にもなる声を発していたのだが、わたしにはどうもその「ナントカ」も「カントカ」もさっぱり覚えられない。化学物質の名前や英語の単語もそうだったので、なにか共通する現象なのかもしれないが、その「ナントカ」や「カントカ」をさらりと覚えて女子学生と楽しそうに話をする同級生を見ていると、よし、おれも、と思うのだが、頭に残るのはその「よし、おれも」の気持ちだけで、「ナントカ」も「カントカ」もちっとも頭に残ってくれない。

 それで、ひたすら取り組んでいたのが草取りだった。まわりから見ると、どうもそれが解しがたい現象に見えたらしい。花壇に出るといつも草取りばかりをするわたしを見て、誰かに「なんで?」「なんで草取りばかりするの?」と訊かれたこともあったか。でも、それが楽しい。やる前に、暑い日差しにちりちりと照らされた花壇を見ると、うへえ、と思うのだが、それでもしゃがんで、1本抜き、2本抜きしていると、ついやめられなくなる(当時の思うにまかせなかった肉体的・精神的内面に鬱積していたものが吐き出せて、それが快感につながっていたのかもしれないが)。

 大学をやめ、東京に出てからも、一時、中野区の区民農園の一画を借りたことがあったが、そのときも、妻の頭には収穫物があったようだが、わたしの頭のなかにあったのは、収穫物よりも草だった。ああ、あの草をまた引けるのか、と思うと、つい内心、恋しい人に思いをはせるような気分になるのである。

 その後、四国に転居してからも、家の前の畑や庭の草を引くのは、面積がぐっと広がったこともあって、とりかかる前は面倒くさくてしかたがなかったが、とりかかってしまうと、夢中になる不思議な作業だった。草取りという作業には、なにかわたしたちをそうさせるものがあるのかもしれない。先日も、首相官邸の下の道をとぼとぼと歩いていたら、水をためたところの中の島のようなところにぽつぽつと離れて植わった植物(「ナントカ」も「カントカ」もわからないので、悪しからず)の根もとの草を取っている作業員の人たちがいたので、お、おれもやらせて――と言おうと思ったが、とたんに肉体の記憶に刻まれた腰の痛みがよみがえり、恨めしそうな顔でそちらを見ながらとぼとぼと通り過ぎた。


# by pivot_weston | 2015-01-18 16:32 | ブログ

土壌は足もとに広がる宇宙

 いつも「土壌は大切」と申し上げながら、実際の土壌がどのようなもので、どれほどわたしたちの生存に関係していて、それがいま、どのように危険な状態に陥っているかということは、応援団のわたしからは正確にお伝えすることができませんでしたが、それを、実際に日本のみならず、アジアの土壌、さらにはチェルノブイリやセミパラチンスクも含めた世界の土壌を見てきた土壌学者の大倉さんが、土壌標本をかたわらに置いて説明してくださるイベントが開かれます。

 2月1日(日)13:30より茨城県つくば市の農業環境技術研究所の農業環境インベントリー展示館において、同研究所の定例イベント「農環研サイエンスカフェ」の第7回目の催しとして開かれる「土壌は足もとに広がる宇宙」というお話し会です。ご参加いただくには、事前登録をしていただくことになっているようですので、ご興味がおありのかたは、このイベントの案内ページをご覧ください。


# by pivot_weston | 2015-01-16 10:40 | ブログ

なぜ「土」か

 国連が定めた「国際土壌年2015」が、その名称を字義どおりに解釈するとややフライングになるが、この「土」へ向かうムーブメントをかたちにする上でひとつの核になったタイ国王の誕生日の2014年12月5日にスタートしてから、もうひと月以上がたった。

 もちろん、目前に迫った「食糧危機」をできるだけ緩和するためには、わたしたちの命を継続する「食」を提供してくれる「土」を大切にしなければならないという思いはあるが、それとは別に、個人的に、この機会に世界の人たちの気持ちを「土」に向けようとしてがんばっている人たちを応援しようとしているわけも、一度書いておきたい。

『「~かもね」は人生の素敵な知恵』という本の「訳者あとがき」にも書いたが、わたしには20年以上が経過しても忘れられない光景がある。全国どこでもかつてはそうだったと思うが、わたしが住んでいた地方でも、村の誰かが亡くなると、すべての家の人が葬儀のお世話をしていた。なぜかは知らないが、その場合、お世話をするのは男と決まっていて、女は裏でお世話をするのではなく、表で式に参列していた。ごつい男たちがもぞもぞと、集会場の前の地べたで遺族のかたや参列者に食事を出すために煮炊きをする光景はちょっとほほえましくもあったが、わたしが忘れられないのは、そんなお世話の合間に、ちょっとのんびりする時間ができたときに、受付のまわりに置かれた椅子や縁台に思い思いに腰をおろしたおじさんたちが、青い空や、誰も声を出さないとしんとした空間を見上げたり、見つめたりしながら、亡くなった人のことや世のなかのことなど、なにやかやを話していたときのことだ。

 わたしは当時まだ30代で、なかなか父母の世代のおじさんたちの会話に加われなかったが、乾いた日なたの庭先でその話を聞いているうちに、この人たちはなんとすばらしい間合いで、なんと味わいのある話をするのだろうと感心した。誰も彼もの間合いがすばらしかった。だから、そのすばらしさが誰か個人の能力や資質から生まれたものでないことは明らかだった。そこで思ったのが、これは土から、あるいは、土とひとつになった暮らし、あるいは人生から生まれたものではないかということだった。

 わたしが子どものころには、人が亡くなると、葬儀の世話をする人たちが朝のうちに墓地に行って大きな穴を掘ってきて、亡くなった人を桶に入れ、その桶を墓地までかついでいって、埋葬していた。つまり、土葬であり、わたしの祖母も、祖父も、硬化した骨を曲げられてばきばきと音を立てながら桶に入れられ、わが家の墓地の土となった。

 先の『「~かもね」は……』の著者ロバート・フルガムさんもどこかで「人は土から生まれ、土に還っていく」というようなことを書いていたが、そういう環境のなかで育ったわたしにも、同じ思いはある。祖母を埋めた墓地で、しばらくたって近所の友だちと戦争ごっこで追いまわし合いをしていて、たまたま祖母の埋葬場所の近くを走り抜けようとしたときに、まったく思いも寄らず、いきなり右脚がズボッと、膝の上まで地面にめり込むようなことがあり、全身から血が引いていく思いをしたこともあった。そこには大きな桜の老木が立っていて、もう枯れかけていたが、祖母を埋葬した翌年の春には、またみごとに満開の花をつけ、誰かがその木を見上げながら、「おお、木になったんじゃのう」とつぶやくのも耳にした。

 そういう生命の循環を、同じ土の上で、そこを耕し、みんなが生きていくための作物を得ながら生きてきた人だから、ああいう間合いや呼吸が生まれるのか、と思った。わたしたちは故人を土葬することにより、また、農地を耕し、そこから自分の命を養う食物を得ることにより、重力に縛られたわたしたちの立脚点となる「足もと」を構成する「土」を忘れないようにする機会を与えられていたのかもしれない。

 先日も仲間うちで話が出ていたが、明治期にわたしたち翻訳者の大先輩に当たる坪内逍遥さんが「文化」という訳語をあてたcultureも、もとをただせば「土を耕す」という意味の言葉だった。その意味で、「文化」「文化」と言っていても「土」から離れたものはcultureには当たらない――という思いも、葬儀の日の農家の庭先でのおじさんたちの会話にわたしが聞き惚れてしまった背景には、あったかもしれない。

 でも、こうしてその「土」に取り組む人たちの活動を応援してくるうちに、わたしのなかには、また別の思いも頭をもたげてきた。

 わたしたちの肉体は分解する。土葬の時代には、地面の下に閉じ込められ、一か所でまるごと分解していたが、火葬の時代になると、強力な炎でむりやり分解させられ、一部は空気中に(目に見える灰のようなものにかぎらず、目に見えない二酸化炭素やなにかのかたちでも)飛散させられ、残った灰の、それも一部を壺に入れて墓地に埋葬するようになっている。土葬の時代にも、分解し、養分として木の根に吸い上げられたその成分は、桜の木に花をつけ、またその樹体の分解を通して、あるいは葉やなにかから、空中に四散していったと考えられる。

 わたしたちはわたしたちとともにいる。もはや人の姿はとっていないが、かつては人の体を構成していた無数の原子や分子に囲まれて生活している(いや、自然界の側から言わせれば、人間の姿をとっている時間のほうが一時的なものにすぎないのかもしれないが)。わたしたちはそんな環境を、自分たちによかれと思う方向でとらえる手段として宗教を生み出し、またその一分派と言ってはいけないのかもしれないが、いろいろと細かく手続きを規定したそれに類似した手段「科学」も生み出した。

 おそらく、宗教もあらゆる環境を前提に、あらゆる環境を想定して構築されなければ説得力を失うのだろうが、科学は間違いなく、考えられるすべてを想定しなければならない(東日本大震災では、「科学」とは異なる「行政」をやっている人たちに科学的な基準を押し付けたものだから、話がややこしくなったが、ああいう現象など「想定内」に決まっている)。前提条件に偏りのある科学は、わたしたちの生きていく方途をさぐる手段としての信頼性に欠け、やみくもに「科学は科学だ」というような粗雑な論理や心がけでそれを受け継いでいこうとしたりすると、いつの間にかその内容が変質し、本来の、人間の福祉に資するものではなくなっている可能性がある。

 土葬を火葬にあらため、「土を耕す」ことを「農業はつらい仕事」「子どもは苦労させたくないから大学に入れる」という論理で放棄することが多くの人に肯定・黙認されてきたわたしたちの社会では、わたしたちに与えられた「生命」を生きることに必然的に伴う苦しさからの逃避が起きているのかもしれない。「農業はつらい」というのも農家の人たちの自意識過剰というもので、実際には、都会に出ようが、大学にはいろうが、なにをしようが、人にお金を出してもらえることをして生きていこうと思えば、なにをしても楽ではない。最近では、「科学」というと「宇宙」という言葉が返ってくるような風潮もあり、「宇宙」も確かにわたしたちに与えられた五感でさぐるかぎり、わたしたちの生きる空間の外に存在する無視できないものだが、やはり、わたしたちの存在があまねく広がる空間とその外の空間をあえて比較するとすれば、優先されるべきは前者であり、「科学」少年が「宇宙」に向かう傾向が強まる社会も、やはり一種の逃避なのではないかと疑いたくなる。

 わたしたちは、わたしたちの存在がひろがる世界をあまねく見渡して判断しないと適切に次の時代を切り開くよりよい判断は下せない。いつの時代もできるだけ広く、わたしたちの存在がひろがる空間にあまねく目を配っていなければ、「科学」はわたしたちの生きていく方途をさぐる手段としての適性を失っていく。だから、やはり、「土」に目を向けることは大切なのだと思う。工業や商業の新製品の開発にしても、わたしたちの「足もと」の「土」に対する意識が乏しくなり、「土」を見ようとしない社会で考え出されたものは、かりにそのときは売れても、結局は人間の「持続可能性」にはつながらないのではないかと思う。

 だから、わたしは「土」に取り組む人たちを応援している。


# by pivot_weston | 2015-01-15 12:04 | ブログ

セミコロンとウインク

 すごいなあと思わされる人もいれば、いいところに目をつける人もいる。

 昨日、かつて和訳を担当させてもらっていた作家のRob KantnerがFacebookでおもしろいページへのリンクをシェアしていた。すでにシェアしている人が4000人近くいらっしゃるようなので、ご存じのかたもいらっしゃるかもしれないが、Robのページにシェアされた円グラフを見ると、思わず口もとがほころび、ついリンクソースのページまで行ってしまった。

 なるほど。前からうすうすそんなイメージはいだいていたが、やはり現実に、英語でセミコロンを使用する人の大半は「To make winky faces.」、つまりウインクをするような感覚でセミコロンを使っていたのだ。日本語で言うと、「ね」ほどの意味合いになるか。

 英語のドキュメントを扱っている人にとっては、たいていすでにおわかりのことだと思うが、セミコロンの使いかたについて3点ほど、整理された情報も掲載されているので、お仕事に疲れた人は一度のぞいてみては。


# by pivot_weston | 2015-01-09 18:52 | ブログ

峠を越えて歩いていく

 世のなかには、あまり目につかないところに(と言っては、失礼に当たるのかもしれないが)すごいなあと思わされる人がいる。近所の連さんがそうだ(関係者のあいだではかなりの有名人らしいので、気安くこんな書きかたをすると、ますます失礼に当たるのかもしれないが)。

 創刊日は「1966年1月25日」とある。今年還暦を迎えるわたしが小学校4年生の冬だ。先の東京オリンピックが終わって1年と数か月がたったころで、まだ高度経済成長は「まっさかり」にも達しておらず、雨が降るとミゼットが水をはね散らかしていく水たまりができる未舗装の道を、ときには荷馬車の馬が落としていったものをよけながら学校に通っていた。

 そのころから、ずっと『台生報』という1枚ペラ物の新聞を発行してきたのだろうか。台湾出身の留学生のあいだで回覧されてきた新聞らしい。国会図書館にも収められているらしく、それらしき記号と番号も入っている。わたしはこれを、連さんご自身がチンさんのお店にひょっこり届けに来てくれて見かけたときから気に入って、以来もう7年ほど、毎号読ませてもらっている(あ、いや、台湾の人向けにすべて漢字の文章で書かれているので、読ませてもらった気分になっている、と言ったほうがよいのだろうが)。

 おもしろい人だ。最新号にも、トヨタの燃料電池車の発売に触れたところで「わたしもブラウン大学の先生をしていたころは燃料電池の実験をやっていた」なんて書いてある。最近も米国のエネルギー貯蔵技術の研究の中心JCESRが取り組むマグネシウムイオン電池の実証実験に成功したことが報じられていた台南市の成功大学から京都大学に進んだ航空工学博士らしい。

 小柄でにこにこしているやさしそうなおじさん。去年の暮れ、その連さんが作る新聞の紙面の文字からあふれんばかりの躍動感が伝わってきたことがあった。台湾の地方選挙で独立派が勝利したときだ。わたしも当日にそれを知り、とても喜んでいたので、その号を読むときは、紙面の文字とわたしの内面が共鳴し、いつもより書いてある内容がすっと頭に入ってきた。

 あたりまえのこと。誰でも、その人の生きかたは本人が決めるもの。一度、台北で自分たちのことは自分たちで決めようとしている人たちの出版記念会につれていってもらったことがあったが、そのときのみんなの表情もとてもすがすがしく、ナチュラルでよかった。

 ところが、昨日、大陸の仕事仲間から届いた原稿を見たら、その連さんの国を大陸の一部のように書いてある。お、こらこら、だ。人は、たいてい地図なんてものを前にすると(つまり、自分とはあまり関係ないという意識が根底にあるからそうなるのだろうが、人の営みを遠目に、大雑把に概括しようとしたりすると)こうなる。連さんの国には、わたしたちや大陸の人たちでは代わりができない貴重な貴重な人間の文化を背負った人たちがいる。近いからとか、力があるからとか、近い過去に治めたことがあるからとか、そういう非人間的な理由で判断していいことではない。わたしたちは人間なのだから、いつでも人間を基本にしないと人間に対する裏切り者になる。

 くだんの大陸の仲間は、列強支配などという、かつてアジアが粗暴で文化に乏しい人たちに荒らされた時代に最先端にあるとされた町、1980年代に日本のマエストロが行ってオーストリアの醸造施設をベースに伝説のワイン「蓬莱山」などを造った風光明媚な町の出身だ。だから、ついさらりとその「列強」とやらの習わしで、ああいう大雑把な世界観がこぼれてしまうのかもしれないが、その彼自身も、うしろ姿などを見ると、とてもいい味が出ている愛すべき人だ。

 峠を越えて歩いていけばいいのだ――と思った。地図だけ見て、ここはこっちのものだ、どっちのものだと思うことがあったら、まずはそこから山を隔てたところから自分の足で山を越えて歩いていったらいい。そしたら、そこの営みはそれで、自分が口出しするようなものではないことがわかるかもしれない。

 まあ、粗野で了見の狭い「列強」の流れにも、おもしろい人はたくさんいる。最近、ヘンリー・デイヴィッド・ソーローのことを書いたものを読んでいる。いわく「首に毛のはえた変人」とある。呵々。人はみな「変人」なのだ。ソーローという人が他人の書いたものでも幸せな気分にさせてくれる人であることを実感させてもらっている。


# by pivot_weston | 2015-01-07 16:51 | ブログ