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なつかしい世界(4)

あっ――と思い、
ミシッ、ミシッの意味はすぐに直感した。

だが、その意味が頭のなかでまだ言葉にならないうちに、
「きみもそろそろ正直に話したほうがよさそうだな」という、
ちょっと、ドラマかなにかのセリフみたいで、プッと吹き出しそうな言葉が
陰にこもったおどろおどろしい声で聞こえてきた。

「えっ、なにをですか?」と言って、振り返って立ち上がろうとすると、
下に垂れていた社長の右手がこちらへ伸びてきて、
そこに大きなハサミが握られていて、
その刃先がわたしの胸の5cmほど手前でとまった。

あ、いかん、この人、もうまともじゃないわ――
そう思って、社長の暗い表情の奥をさぐりながら、口をつぐんでいると、
「本はまだなくなっている。
会社の鍵は変えた。
もっているのは、わたしときみしかいない」
と言う。

なるほど。
だとしたら、論理的にはわたしということになるが、
昼間は郊外まで飛びまわってあちこちの大学をめぐり、
夜は夜で、ほかでもない社長に2時、3時までつきあって、
おまけに翻訳学校にも通っているわたしに
どうしたらそんなひまなことができるのか――と言いたかったが、
こうなると、なにを言っても通じまいと思ったので、
「わかりました。やめろ、ということですね?」
とだけ言った。

すると、とたんに社長の口調がやわらぎ、
「きみもこのまま外に投げ出されたら困るだろう」と言う。
そして、「これをもっていきなさい。30万ある」とも言う。

えっ、さ、さんじゅうまん?

わたしの給料は15万円だった。
で、何か月はたらいてきたのかというと、かぞえてみるまでもない、
入社したのは先月、11月だ。

退職金をもらう資格なんてまだ発生していなかっただろうし、
もらえたとしても、はたらきから考えると、大きすぎる額だ。

しかも、例の作業着姿のわたしに、
「きみはコートももっていないみたいだから、これもあげるよ」と言って、
紺色のきれいなトレンチコートまでくれた。

そこではじめて、わたしなりの推理はついた。
はは~ん、なにがあったのか、真相はわからないけど、
ともかく、なにか事情があって、
若い社員をふたり雇ったものの、ふたりとも切らなければならなくなったのだな、
と思ったのだ。

あまりの急変だった。
意気揚々と出社して、無職の身となって会社を出るまでの時間は
5分ほどではなかっただろうか。

腹を立てるにもたりない時間だ。
ともかく、なにがなんだかわけがわからない。
会社を出たわたしは、50mほど歩いたところで、
「ええい、毒を食らわば皿までもだ」と
声に出してつぶやきながら、
腕にもっているのがじゃまくさかったトレンチコートをはおった。

ほんとうに不思議な気分だった。
つい先ほどまでは、神保町の街を歩く通勤族のひとりとして、
なんの気なく、その群集のなかに埋没していたのに、
いまは、まわりの人みんなが自分とは違うように思えた。

みなそれぞれ生活があって、行き場がある。
でも、いまのおれは無職で、行き場がなくなったんだ。
そんなことを考えながら歩きつづけていても目的地がないので、
神保町のバス停に立っている人たちのなかに交じって足をとめ、
反対側の歩道を歩いている人たちを見ていたときだ。

あ、これか!――と思った。
「小説もどき」をしかってくれた先輩は「もっと人を見ろ」と言っていた。
だから、それからは、電車のなかや街で見かける人を
ひとりひとりにらみつけるようにして見ていた。
だが、そうすると、自分が見ようとしていることばかりを見ようとしたりして、
いつまでたっても人を自然に描写できるようにはなれそうになかった。
もっと楽に、自然に人を見て描写できるようになるにはどうすればいいのか――
そんなことをずっと考えつづけていたのだが、
このとき、「群集のなかの無職ひとり」のような気分を味わいながら
神保町の光景を見ていると、
あ、もしかしたら、この距離感かな――というものを感じた。

すると、うれしくなったのか、
うらぶれた気持ちとは裏腹に、ふふん、とつい笑いがもれたが、
行き場がないのは変わらない。

夕方には、大学時代につきあっていた人が来る。
その人に報告することの内容が、
約束の当日の朝の、ものの5分ほどの間に一転してしまったのも問題だったが、
それ以前にまず、
その約束の時刻までどこにいるかを考えなければならなかった。

アパートには帰りたくなかった。
崖下の、1日中日の差さない部屋にいると、
どうしようもなく落ち込み、
暗い顔で彼女と会わなければならなくなりそうだった。
さて、どうしたものか――と考えたとき、
あの、チャイナドレスの女性のことが頭に浮かんだ。

稲村さんだ。

どこかのお嬢さま然としていて、わたしとは縁がないように思えていたが、
話してみると、なぜかまったく抵抗がなく、とても楽に話ができたので、
アルバイト先の電話番号まで教えてもらっていた。

それで、迷惑かもしれないけど、もし時間がとれるようなら、
ちょいと時間つぶしにつきあってもらおうかと思ったのだ。

社長のはからいで、懐に30万という、
それまでもったことがなかったような大金がはいっていたことが大きかったのだろう。
アパートへ帰らず、街にいる分には、無職への急な身分の変化は、
まるで気楽な風来坊になったみたいで、ある種、爽快だった。

だから、電話がつながると、開口一番、
「あはは、おれねえ、クビになっちまったよ~」と言った。
稲村さんも「えっ!」と言ったあと、ゲラゲラと笑いだした。
なにがそんなにおかしいのだろう、と思うくらい笑っている。
そこで、「ねえね、んなわけで、時間ができちまったんで、
これからちょっと時間つぶしにつきあってくんねえ?」と言うと、
「いいけど、(アルバイト先の)会社から遠くへは行けないよ」と言うから、
「んじゃあ、そっちへ行くよ」と言い、
目の前のバス停からバスに乗り、
稲村さんのアルバイト先があった渋谷の神泉に向かった。

1時間、いや、もうちょっとだっただろうか、
そうして「どこかのお嬢さん」に時間つぶしにつきあってもらい、
心の底にひそんで、いまにも飛び出してきそうになっていた暗い虫を
散らすことができたわたしは、
ようやくアパートに帰る気持ちになり、
しばらくコタツに寝転がって、無為な時間をつぶした。

テレビもラジオも電話も、なにもない部屋だ。
その日、世間で起きていたことはなにも知らなかった。

そこから上野駅のホームに行くには、小一時間かかっただろうか。
夕方になり、
彼女の到着時刻の6時14分からその時間を引いたくらいの時刻になると、
また曙橋のアパートをあとにした。

クビになった直後には、どうしようと思ったが、
そのころには、時間つぶしにつきあってくれた稲村さんのおかげもあって、
楽しいこと、つまり、彼女と会えることのほうに気持ちが向いていた。

まあいい、
「出版社の編集者になれたよ」ではなく、
「出版社の編集者をクビになったよ」という報告をするはめになったが、
ともかく、彼女と会えるんだ。よけいなことを考えることはない――
そんな気分だった。

当時の上野駅の東北本線のホームはいつも人でごった返していた。
山手線を降りて、天井の低い通路を歩き、
東北本線のホームに降りていく階段の上まで行くと、
東北訛りの人の声が混ざった、ざわざわ、がやがやという喧騒が聞こえてきて、
眼下に、ホームと改札口との間を右に左に行き交う大勢の人の姿が見えていた。

待ち合わせ場所は「ホームのいちばん端っこ」だった。

雑踏を通りすぎた先に、ひとりでぽつんと立つ彼女の姿が頭に浮かんだ。
天井の低い通路を歩く足のはこびも、おのずと速くなる。
で、その階段の上まで行ったときだ。

あれっ!? 誰もいない!
いつも大勢の人でごった返しているホームと改札口との間の広いフロアに
ほんとうに、人っ子ひとりいない。
なんで?

とこ……とこ……と、ゆっくり階段を降りると、
その、人っ子ひとりいなかったフロアのなかほどにぽつんとひとり立ち、
きょろきょろとあたりを見まわしてから、
改札口にいた駅員さんのところへ向かった。

「ど、どうしたんですか、これ? いつも上野駅は……」と訊きかけると、
「今日は東北・北陸地方が大雪で、電車は全部とまっています」と言う。
「ぜ、全部?」と問い返すと、
うなずいている。

「え~、ここで待ち合わせをしていたのに……」と言ったが、
それはもうひとりごとにすぎなかった。

しかし、ついいましがたまで、
雑踏をかき分けて「ホームのいちばん端っこ」まで行くことを想定していたのに、
気がついてみると、誰もいないがらんとしたフロアにひとりぽつんと立っていて、
右にも左にも、行くところがなかった。

いちおう、念のため、暗い「ホームのいちばん端っこ」を見ることは見たが、
帰るしかないのか――
そう思って、さっき降りてきた階段を昇りだしたときには、
さすがに昼間の稲村さん効果もどこへやらで、
朝のクビ宣告のときからずっと心の底にひそんでいた暗い虫が一気に飛び出してきて、
そういうことか、
おれの人生はそういうことか――
と何度も心のなかで同じ言葉をつぶやきながら、
こんなクリスマス・イヴを用意していた自分の人生をうらむ気持ちになっていた。