はは、女に逃げられた。同居している女に逃げられた――といっても、もちろん、ひと昔前に天国へ逃げた人のことを言っているのではない。80歳にして、あっちもこっちも病気になって、足もともおぼつかないながらも、その人生の79年を暮らしてきた地への思いやみがたく、「もーシンボーできん」「ちょっと行ってくらあ」式に、体にふつりあいなわたしのリュックをしょって一時的に脱走した老女の話だ。
まあ、無理もないか。向こうの同居人、つまりわたしは、365日、朝も、昼も、晩も仕事。起きているあいだはずっと(息抜きで寝ころがっているときを除いて)机に向かっていて、それだけ仕事をしたらさぞかし、そろそろどこかでゆっくりできるたくわえも――と思われそうだが、そんなことはまったくなく、どうにかそれで日々をしのいでいるありさまだ。
脱走老女の頭のなかにある世界は、こちらもその80年の人生のうちの60年近くをそばで生きてきたので、だいたい想像がつく。文化の違いだ。わたしの遺伝子には、正反対のふたつの文化が混ざっている。一方の文化の担い手、つまりその老女のパートナーは、わたしのパートナーが天国へ逃げる10年ほど前にそちらへドロンしていて、そのときに部屋に残っていたガマ口をさかさにしたら、100円玉も出てこず、10円玉が何個かころがり出してきただけで、「いや、さすが。あの人らしいな。こら、まいった」と言って、みんなで笑いあった。
老女もそのパートナーといっしょになってからの60年ほどの経験で、そんな文化に対する共感も持ち合わせているのだが、やはり、そうはいっても、いつでもすぐに実家へ行ける地で過ごしてきたものだから、基本的にはかたときも自分を育んだ文化が頭の底から消えたことがない。お役人文化だ。「おまえ、ナンボもろとんや?」を合言葉とする。「公僕」という言葉の定義とはかけ離れていると思うが、その公僕という立場を暮らしの安寧の手段とする。だから安寧に暮らせたのか、3人の兄弟はみな元気で、そろっていま、長年の公僕生活をねぎらわれて(老女の言によると)月々30万を超える年金だかなんだかをいただいている。
老女の頭には、人間はみな、年をとったらそうやって安楽に暮らすものだという観念が染みついている。いや、兄弟のほうからすると現実はそうでもないかもしれないが、異なる文化に飛び込んでしまい、そちらをあこがれの気持ちで振り返りながら生きてきた老女のなかでは、いつまでたっても、そこにこそ安楽な生活があるという思いが消えない。それでつい、机の前であくせくするばかりの息子のもとがいたたまれなくなる。
わかる、わかる、わたしも半分混ざったハーフだから、その気持ちはわかる。でも、いま、若い、たとえば20代の人たちは、平均してどれくらいの収入があるのだろう。老女の兄弟くらいの収入があるのだろうか。テレビなどを見ていると、騎馬戦かおみこしみたいな絵を出してきて「現役世代×人でひとりの老人を支えるんですよ」みたいなことを言っている。支えている側が10万そこそこの収入で、支えられている側が30万だとすると、異様というか、異常というか、まるで奴隷制度の絵のようになってしまう気がする。
いつも言っている。いまの世のなかは、日本が高度経済成長を遂げたとされる昭和30年代や40年代に若い時代を過ごした人たちの勝手でできている。遠い将来の見通しにもとづいて建設された世のなかなどではない。公務員だけではない。国庫を頼りに、選挙の票と引き換えに、必要かどうかもわからない公共工事を捻出してきた人たちもそうだろう。問題は多くの人が、実際の肩書はともかく、親方日の丸、親方アメリカの一念で、「実質公務員」をやってきて、国庫に借金をさせて金を稼ぎ、次代の稼ぎ手もその金でスポイルし、とにかく狭い了見でわがまま放題をしてきたところにある。そして、それこそがいまのギリシアの姿でもある。
昨日、イギリスの格付け会社が日本国債の格付けをまた「AA-」から「A+」に格下げしたらしい。戦後「奇跡の復興」を遂げたと言われ、「世界第2位の経済大国」を自慢してきた日本も、もう「A」がひとつしかない国だ。街頭で、どこまで苦しいかわからない年金世代の話を聞いて消費税値上げに疑問を呈している場合だろうか。「国家非常事態宣言」を出してもおかしくないような状態なのに、いつまでもギリシアの人たちのように目の前の安寧にすがっている。
突破のカギは「起業」だと思う。若い人たちが起業をしやすい環境を整え、若い人たちには、起業の心意気をもってもらうことだと思う。起業は景気がいいからするものではない。もうかりそうな仕事があるからするものでもない。経済の基本はひとりひとりの起業で、当然、サバイバル競争で生き残れる人はかぎられてくるだろうが、不況だからといってその経済のエンジンを停止していたら、経済はしぼんでいく一方で、いずれはその土台にある借金に飲み込まれていくと思う。
やはり、日蝕の醍醐味は下界の光景――と感じた。
「金環」も見るには見たが、向かいのビルの白い壁の、いつもの朝とはほのかに違う明るさを見ながら、場合によったら太陽そのものは曇天に隠れていてもよかったのではないか、と思った。
先日の竜巻の日も、かなり暗くなったが、漆黒の闇にはならなかった。どんなに暗い曇天の日で「金環」なんて見えなくても、わたしたち、太陽が降りそそぐものによって生まれてきた存在にとっての日蝕の意味、太陽の意味を考えるには十分だったのではないか。
なんてことを思いつつ、考えたことを少し。
わたしも安易に使ってきたかもしれない。でも、ずっと疑問に思っていた。だから、もう使わないように気をつけるとしよう。
「国民」という言葉。
メディアも政治家も、なにかというとすぐに、便利に使っている。でも、その言葉が意味するものって、なに? そうか、麻原クンもそう考えているのか――と、聞くたびにいつも思う。
先日、英語の文書を読んでいて、その文書が同じようなニュアンスでtaxpayer(納税者)という、少しは焦点を絞った言葉を使っているのが目にはいったときに、あらためて、やっぱりpeopleなんて、そんな大ざっぱな言葉、あまり使わないよな――ということに思いがいたり、上記のように考えた。
メディアの人は、駆け出しのころから先輩に「おまえ、裏とったか?」と問いつめられているはず。それなのに、「国民」という言葉にかぎっては、なんの裏もとらなくても、先輩のおとがめもなしということか。メディアの人ならメディアの人らしく、ちゃんと裏をとった言葉を使ってほしい。漠然とした言葉を使うことがどんなに危険なことか、メディアの人なら教育を受けているはずだから(でも、商売第一、人気第一の広告で成り立っているメディアの人たちには、そういう「裏」のさらに裏に、もっと別の原理原則があるのかもしれないが)。
現実を踏まえるのもだいじ。
前にも書いたように、原発の稼働と稼働停止の違いはそれほど大きくない。福島第一原発の4号機の状態を考えてみるといい。あそこは当然もう稼働していない。でも、あそこの建物がこの先さらにどうにかなったら、首都圏もアウト。去年の3.11直後の放射性物質の分布図の揺らぎを見た印象から言うと、南向きの風が吹いていたら、数分、あるいは、もしかしたら1分くらいで「副首都」にも「分都」にも動きだしていない首都圏に放射性物質は蔓延し、日本の首都は、そう言ったら怒られるのかもしれないが、「死の町」と化す。稼働を停止しているからといって、安全なんて、とんでもない勘違い。そして、その状態は、少なくとも、いま生きているわたしたちに関して言えば、死ぬまで続く。それはもう決まったこと。動かない現実。それが、稼働を停止してさえいれば逃れられると思うところに疑問を感じる。そういう逃げの姿勢こそ、安全神話と同じで、わたしたちがいちばん反省しなければならないことではないのか。
例の「(再稼働は)専門家が判断するのが当然」という、ちょっと聞けばもっともらしく聞こえる意見も。この、たとえば「日蝕」のような現象が起こる宇宙を前にして、そういう意見を言う人が期待しているような絶対的安全を判断できる人なんていない。物理学者にこの世の真理を訊くようなもの。みな、わからないから学問しているのではないのか。
だいいち、この国の「専門家」のなかにいわゆる「原子力ムラ」の住人でない人なんてほとんどいない。反対運動をしている専門家も、たいていもとは「ムラ」の住人。科学者としての「なんでもあり」の想定より、行政が浮き世のあれやこれやのほうを重んじて設定した想定のほうを重んじてやってきた人たち。なのに、どこかに、不偏不党でとてもバランスのとれた「専門家」あるいは「科学者」がいると期待しているような、安全神話の時代となんら本質の変わらない世論のありかたにこそ、原発問題の本質は隠れているのではないか。原則として、最終的に判断しなければならないのは「専門家」でも「首相」でもなく、わたしたち自身だと思う。
どうしてこんなことになってしまったかを追及するにしても、いまの政治家や官僚を追及していても、それはただ表面をほじくるだけの行為だと思う。いま、歴代の通産大臣の名前を見ると、「中曽根」という人を筆頭にして、「安倍」という人もいる、「渡辺」という人もいる、震災後、いつの間にか引退を決めたもうひとりの「渡部」という人もいる、「森」という人もいて、近くは「二階」という人もいる。せめてこういう人たちには、なにか話を聞いてみないと、なにも見えてこないのではあるまいか。
なんて、いつものようにエラソーなことを書いたけど、わたしも人一倍ナマクラでナマケモノのオヤジなので、人間、そうは言っても、たとえば今日の日蝕のような現実を正面から受け止めるのなんて土台無理で、誰だって逃げたくなるし、逃げてしまうのはよくわかる。でも、逃げるときは自分たちが逃げているという自覚を忘れてはいけないのだと思う。そうでないと、現実との接点を忘れた世のなかは暴走してしまう可能性が出てくる。
震災直後、全部自民党や自社体制がやってきたことの責任をひっかぶらされることになった民主党の若い政治家の人たちを見て、フェアじゃないなと思ったけど、これはやはりチャンスなのかもしれない。これまで何度も何度も、なにかあるたびに言われてきたことだけど、今度こそほんとうにわたしたちは戦後の甘えから抜け出し、「戦後」にケリをつけるチャンスを迎えているのかもしれない。原発問題の背後に見える甘えが社会保障問題の背後に見えるものとだぶって見える。
「日蝕」なら思い出さなかったけど、そうか、「エクリプス」か――と思ったとたんに思い出した。
John DenverのEclipse。
大学時代に買ったLPレコードにはいっていた。
どれどれと思って検索したら、YouTubeで聴けた。
聴いてみたら、そうか、serenityという言葉をはじめて知ったのも、この曲でだったか、ということも思い出した。
ジョン・デンバーの声がなつかしい。いくらなんでも早く死にすぎた。
でも、この曲、いまみたいにコンビニで眼鏡を買えなかった、昔の「日蝕」の感じが出ている。けっこう印象が強かったみたいで、そのころしきりに、いろんなところで「エクリプス」という言葉を使っていたことも思い出した。
たしか、わたしたちが小学生くらいのころにも、一度、昼なのに暗くなったことがあった。家の窓から外を見ていると、軒の下が暗くなった。粒子の粗い映像を見ているみたいに、どこか夕方の暗さなどとは違う、モワーッとした、なんとも不思議な暗さ。
明日の日蝕も、またいろんな人の気持ちを刺激して、曲を書かせたりなにかするのだろうか。
そうか、どんなレコードだったかな、と思い、そちらも検索してみると、見つかった。これだ。「バック・ホーム・アゲイン」。
よかった、よかった。いい日蝕イヴ。そういや、20年ほど前の部分日食のときには、ライターで眼鏡にススをつけようとしていてフレームを焦がして眼鏡をダメにしてしまった。それでも日蝕を見ようとする夫の姿を、妻があきれて遠目にながめていたか。
今日もYouTubeでミッキー・マウスやドナルド・ダックを見た。昔の手描きのアニメだ。
もちろん私見だけど、まったくダメだね、いまのCGアニメは。前にCG版ミッキーも見たけど、情報量がまったく違う。極端に言うと、CGアニメの直線や規則的曲線部分は情報量が「1」しかないと言ってもいいのではないだろうか。CG版アニメは、いかに複雑な形状を描いていても、いかに挑戦的な動きを表現していても、ひと目見て動きや形状が理解できたら、「はい、それで?」と思ってしまう。そこへ行くと、手描きのアニメはとてもとても「はい、それで?」なんて思えない。無数の情報がこめられている。ストップさせて静止画にしたとしても、いつまでも考えるよすがを提供してくれる。アニメだけど、人間なんだ、手描きのアニメは。無数の細胞でできている人間と同じだ。
CGアニメの人はいっぱいお金をもらっても安心してちゃだめだね。アーティストとしては、手描きアニメーターと雲泥の差がある。
それにしても、すごいな、あのミッキーやドナルドの表情は。ウォルト・ディズニーの愛情が女の人に向かわなかったのもうなずける。向けられるほどの「あまり」がなかったんじゃなかろうか。
このところ、生活のペースが乱れている。
乱れているのは、決まった予定ができてしまったからだ(変な論理かもしれないが)。
朝10時。若大将。テレビ朝日の「ちい散歩」のあとを受けて、加山雄三さんの散歩がはじまった。
朝から昼まで寝るのがこれまでのいちばん快適な生活パターンだったので、これを見るには、睡眠時間のど真ん中で起きていなければならないことになったのだが、それでも見て、あとの暮らしを調整している。
なんで、そんなに見たくなるのだろう。
散歩をはじめたばかりの加山さんのうしろ姿を見ていると、まだどこか、前任者の地井武男さんの「ちい散歩」を意識していて、自然じゃないようにも思える(カメラマンが同じ人だからか、加山さんの歩くうしろ姿が、両手を左右に振っていた地井さんの歩きかたに似ているようにも思う)。ひとことひとこと、発する言葉の間合いにも、新しい自分の番組との接点の感触がまだつかみきれず、どういうふうに自分を延べひろげたらよいのか戸惑っているようにも見える。
それでも、朝の10時が近づくと、なにかを「楽しみにする」という、なつかしい感覚をおぼえ(たとえば、昔の「ウルトラQ」がはじまる前の、あの画面のよじれを期待していたときの感覚に近いかもしれない)、ついつい毎日、15分ほどの散歩を拝見している。
浅草、日暮里、お茶の水と、わたしにとっても近しいところからはじまったせいかもしれないが、どうも、それだけでもなさそうだ。
「若大将」といっても、もう75歳らしい。母と5歳しか違わない。星由里子さんはきれいな人だと思っていたが、考えてみると、わたしが子どものころに大人だった人たちだ。「湘南」というキーワードも、わたしにはあまり縁がないので、どうしてこう「楽しみにする」気分が湧いてくるのか、よくわからない。
ご本人はまだ戸惑っておられるようだが、スターというのは、知らず知らずのうちに世のなかの人たちといっしょに積み重ねてきたものを身のまわりに帯びているわけで、それは、ご本人ではなく、まわりで見ている人ひとりひとりの内側に積み重ねられていて、ご本人が現れたとたん、まわりにいるわたしたちがその積み重ねてきたものを思い出すよすがを与えられているのかもしれない。だから、加山さんの戸惑う姿までもが、いまの世のなかに戸惑う自分の内面に重なる部分があって、若い人たちから見ると、なんだかぎくしゃくした番組にしか見えなくても、連続ドラマの続きを見ているように、すんなりと流れにはいれるのかもしれない。
「しあわせだなあ~」とか言って鼻の横っちょをこすっていたころは、まわりにいた大人が「この人、歌へたやなあ」とか言っていたけど、わたしにはその根拠がまるで理解できなくて、そうかなあ、そんなもんかなあ、と迎合していたのだが、その後、ホスピスのボランティアなどでもよくうたわせていただいたせいもあるのか、いま、番組のなかで流れてくる曲を聴いていると、なんや、この人、ある種の天才なんとちゃうか――と、あのころ、まわりの大人たちには、ばかにされそうで言えなかったことを、ひとりで、胸のうちでつぶやいてみたりもしている。
スターといっても、加山さんはいっとき苦労をしたこともあった。スターがゆえに、そんな苦労も、陰でひっそりとはできず、みんなにさらされながらしなければならないという苦労も味わっている。そんなことも思い出すと、きっとあのかわいらしかった奥さんのことをだいじにしてるんだろうな、などと思ったりもする。
いま気がかりなのは、ひとつ。まだはじまったばかりだが、これから長く続いていくとしたら、いったいどこを歩いていくのだろう、ということ。地井さんは、埼玉の川越や千葉の運河のあたりを歩いていてもしっくりきたけど、加山さんはどうなんだろうなあ、と思っている。
ところで、これを書きながらあれこれ調べているうちに発見したこと――星由里子さんの卒業した精華学園女子高というのは(吉永小百合さんも1年後輩らしいが)、いまわたしの住んでいる角筈村にあったんだ。阪妻さんの育ったところでもあるみたいだし、いろいろあるところだなあ、ここは。
アフガニスタンは、ずいぶんむごたらしい国になったものだ。
1964年の東京オリンピックの開会式の入場行進では、オリンピック発祥の地ギリシアのあとにうれしそうに歩いてきた人たちの国が「アフガニスタン」と紹介され、「ほー、アフガニスタンちゅー国があるんか」と、素直にわくわくしながらブラウン管の画面に見入っていた田舎の子どもの頭にその国名が鮮烈に焼きついたものだ。
10代のころに読んだ本に書いてあったバーミヤンの話も、遠い乾いた国への好奇心を強く刺激し、アフガニスタンという国が頭のなかの「行ってみたい国リスト」の上位にランクされた。
大学時代にワインのことを勉強するために読んだ農業関係のぶどうの本には、アフガニスタンがぶどうの原産地ではないかという説も紹介されていたか。
世界情勢に詳しかった人たちにとっては、すでにそのころから前兆は把握できていたのかもしれない。でも、そんな広い視野などもたずに新宿の崖下のアパートで暮らしていたわたしにとっては、1979年の年の瀬に、その暗いアパートに帰ったときに手に取った夕刊の一面にでかでかと載っていた「ソ連軍アフガニスタン侵攻」という予想もしない巨大な見出しがとても衝撃的だった。
以来33年。まだ戦争をしている。
人の物心がつく時期を5歳と仮定すると、アフガニスタンの38歳以下の人は戦争しか知らないことになる。
日本でも、戦争の記憶を整理するにはずいぶん時間がかかった。戦争は、勇ましいことを言っている人だけでなく、それにかかわった国の人全員の心に深い傷を残す。しかも、日本の場合は、戦争しか知らない人はそんなにいなかった。かりそめにしても、戦争体験者の多くは、その前に平和な世のなかを見ていた。それを考えると、これからアフガニスタンの人がたとえ平和へ向かったとしても、たとえば新宿や渋谷の街を歩いている人たちのように、自分の日常にだけ心を配っていればいいようになるのはいつのことだろう、と思う。
報われないものだ。かつてはアーリア人の胚胎地でもあったはずだし、東西、南北の文化の伝達路、交流地の役目も果たしていたはずなのに、そういう文化の最果てで成り上がった人たちに利用されている。
ともあれ、すごい「アフガン情報」のページを見つけたので、そんなことを思った。「兼高かおる世界の旅」の放映日までが記録されている。
つまるところ、わたしはこういうものを読むのが好きなのかもしれない。
このところ、ある人が書いた記録を読ませていただいている。注文を受けて書いたものではない。仕事で求められて書いたものでもない。でも、まぎれもなく仕事の記録。仕事のうえでの、さまざまな人との交流の記録。その人が毎日出会う人にどのように接しているか、その内面の姿勢がにじみ出ている。
大学時代、わたしもレストランのウエイターをやったことがあり、クールにお客さんの心に寄り添う主任の仕事ぶりを見ているうちに、そのまま接客のプロになりたいと思ったこともあった。たしか、別冊文藝春秋で世界のホテルの特集をしたことがあり、そのなかに、イタリアのコモ湖のほとりのホテルマン学校に通う日本人青年のことが紹介されていて、ああ、いいなあ、おれもあんなふうに……と、若者らしいあれもこれもの夢のひとつにコモ湖のほとりを思い浮かべながら、ときどき、お金をためては仙台の静かな住宅街にオープンした隠れ家的なレストランに通い、ふむふむ、ワインは……などとそのお店の人と話をしながら、青二才の頬を赤く染めて、いい時間、いい人生というものを考えていた。
そしたら、おもしろいもので、これまた若者らしくあっさり宗旨替えをして、上京して文字を書く仕事をめざしていたら、ある日、お世話になっていた出版社の編集者の人から「お~い、本づくりの手伝い、やんねーか?」という声がかかった。あら、おれのことなんて、まだ四分の一人前程度にも認めていないくせに……とは思ったが、聞いてみると、「ワインの本なんだけど」という。「あら、それ……」もちろん、あとの言葉は飲み込んだ。だって、言うのもはばかられる程度の「愛好」でしかなかったから。
でも、内心、鼻息の荒くなる内なる馬の手綱を引きながら、その本を出そうとしている人のところへつれていってもらい、お会いしたのが甲州園、そう、いまのルミエールの会長、塚本俊彦さんだった。
恰幅がよくて、怖そうな人。でも、ワインをつくる人なんて、そうでなくちゃ、という期待もあった。わたしの場合、ワインの世界に対するあこがれは、頑固で人を寄せつけなかった指物師の祖父の職人の世界に対するあこがれにオーバーラップしていた。
うれしくなって、当時はアパート代も満足に払えない稼ぎしかなかったのに、本づくりの作業で紙をひろげなければならなくなると、近所で作家が執筆の場にしていた旅館を見つけ、庭に面した広い部屋を借りて、そこの大きな座卓にきれいな赤ワインの写真がならんだ本をひろげ、ワインの世界を満喫した。そんなことでは、さぞかし奥さんはカンカンだったのでは――と思われるかもしれないが、こういう亭主にはそういう妻がいるもので、毎日夕方になると、1歳になったばかりの長女の手を引いて、にこにこしながら「お弁当だよ」と言って陣中見舞いにやってきて、まあいいよ、お金はないけど「楽しい」がいちばん、なにがあってもいまを楽しもうと、みんなで能天気に暮らしていた。
家族みんなでワインづくりの世界を思い描いていた。ロサンゼルスオリンピックのころで、果物屋で買ってきたぶどうをイーグルサムの絵のはいった容器に詰めて、毎日、もうワインになったかなあとのぞいていた。かと思えば、ワインの本をつくるなら、やはりワインを飲んどかなきゃ、というわけで、デパートで1万円で売っていたマルゴーを買ってきて、どれどれと飲んで、ふむ……と顔をしかめていたら、わたしより1万円の価値が50倍くらい小さい大金持ちのデザイナーの奥さんに「はは。1万円のマルゴーなんて、飲んでてどーすんのよ」と笑われたこともあった。
結局、塚本さんの本は『ザ・ワイン』という、この上なくきれいな本になって仕上がったが、でも、所詮、文章の世界を「ここ」と定めたわたしにとっては、ワインの世界も、料理の世界も、サーヴィスの世界も、みんなとても興味はあるけど、遠い世界なのだと観念し、ルミエールのようすをずっと遠くから拝見してきた。でも、そこに、このところ、なんかいい感じの、志ある人たちが集まってきている。
農場担当の小山田さんは、亡くなった児玉清さんのようにドイツ文学の世界からワインの世界にはいってきた人。入社したころから、塚本さんが会うたびに「彼はよく勉強している」「彼はよく勉強している」と何度も力をこめて話をしていて、たまにルミエールのワイナリーにうかがったときにちらりと姿を拝見しても、ぶどうや畑に対する愛着や愛情が伝わってきた。
ムッシュー・ツカモトのあとを継いだ木田社長は、子どものころから、ムードや空気に流されず、(ま、永田町界隈ではだいぶいたずらもしたみたいだが)自分がこうと思ったことを曲げない性分をもちつづけ、それがゆえに淡々と、古代の山梨の首都、一宮の土から育ってくるものと素朴に向き合い、そこから生まれてくるものを素直に表現するのが最善のことと信じ、新しい国産ワインのムーヴメントを起こそうとしている。
そこへ今度は、ワイナリーレストラン「ゼルコバ」ができ、都心のオシャレなホテルのフレンチのシェフ、広田さんが加わった。この広田さん、自然の滋味豊かな土佐で育ったせいか、実際には「食のオールラウンダー」で、フランス料理はもちろん、スロベニアの料理と接しても旺盛な好奇心を発揮してさらりとそれを吸収し、いまではすっかり、山梨の食材の豊かさ、おもしろさに夢中になり、ルミエールのワインとの取り合わせにそのセンスをはたらかせている。
で、そこへ、そう、冒頭に書いた「記録」の書き手、「ゼルコバ」のマネジャー、佐野さんも加わった。ああ、こういう人にサーヴィスしてもらったら、お客さんは幸せだろうなと思う。
ぶどうができて、ワインになり、その地でとれた食材と合わせて、おいしく、楽しく味わう。その最後の「楽しく」の部分に、みんなが少しずつ、それとなく気を配ることで、お客さんも一体となった、みんなのいい時間ができてくる。なんか、若き日にそういう世界への思いを断念したおじさんがうらやましくなるような世界が「ゼルコバ」にはできつつある。
でも、この「ゼルコバ」でひとつ忘れてほしくないことがある。いま、このレストランが建っているのは、明治の文明開化期からワインづくりをはじめ、戦前・戦中には日本のワインの何割かを生産していた甲州園の創業家、降矢家の屋敷が建っていたところ。お母さまの実家だったそこへ、少年の塚本さんが夏休みや疎開で来ていたころ、離れでひとり書き物をしていた人がいた。
ワイン好き、お酒好きの人のなかには、ご存じのかたも少なくないだろう。かつて日本の「お酒の神様」「醸造学の神様」と言われた坂口謹一郎さんだ。若き日の坂口さんは、よくそうして降矢家に逗留しては、離れで論文を書き、夜は降矢家の当時の当主、巨人・虎馬之甫(こまのすけ)さんあたりと一升瓶のワインを飲んでいたという。そう、「ゼルコバ」は、かつて「神様」がワインを飲み、考えていたところ、言ってみれば日本ワインの「聖地」なのだ。そんなところで、ぶどうのこと、ワインのこと、料理のこと、サーヴィスのことに心を砕き、自分がやりたいと思うことに打ち込んでいる人たちがいる。かつて「神様」の頬を撫でた風を肌に感じながら、そういう思いのこもったワインや料理を、思いのこもったサーヴィスで味わっている人たちは幸せだ。
昨日、フジテレビの朝の番組をやっている小倉さんが、昔から高齢者のよく言う「年取ると涙腺がゆるんで……」という話をしていた。まったく同感。ほんと、このごろは自分でもあきれるくらい、また、あきれて笑いだしたくなるくらい、いろんな場面で感涙する。
もちろん、とはいえまだ56歳程度の赤子の高齢者なので、そうそう人前でそれらしきところを見せるわけではなく、いちばん危ないのはひとりで寝転がってテレビを見ているときなのだが、小倉さんの話を聞く前の日、つまり、おとといの夜にも、若いシングルファーザーの暮らしに取材した番組を見ていると、その「あきれて笑いだしたくなるくらい」の現象が起こった。
親自体が十分に成熟する前に生まれてきた女の子。親が離婚するというので母親のほうへついていき、母親の新しいパートナーとしばらく暮らすが、またそこから母親が出奔し、そのまま血縁関係のないところにはいられなくなって、養護施設へ送られそうになったところで、その話を聞きつけた、かつては見捨てられた父親のところへ戻ってきて、まあ、あまり人にうらやましがられることはなさそうなアパートでふたり暮らしている。
おそらく、番組制作者が構成上で意図したことだろうが、最初はその女の子の暮らしぶりにスポットが当たる。まだ小学生なのに、毎日朝早く出かける職人の父親とまったく接点のない生活をしながら、ほしい漫画雑誌を「買って」とも言えずにがまんし、穴だらけの靴下もやはり「買って」とも言えずにはきつづけているところあたりにじーんとくる。なによりその子が、そういう状況でも、自分の内面を捨て鉢に外に発散させずに、じっと自分の内側にためていることが「じーん」の背景にある。いい子だなあ、という思いだ。
それにひきかえ、父親はいくら仕事が忙しいのか知らんが、なんか変じゃないのか、という思いが頭をもたげてきかけたところで、今度はその父親の口から、自分も子どものころに両親を亡くしたので親としての接しかたがよくわからない、という事実が語られ、安直に問題の原因を求めようとしたこちらの内面に、また「じーん」の感覚が襲ってくる。
しかも、スタジオでコメンテーターをしていた泉ピン子さんまでが「わたしも実は……」なんて話をもち出してきて、若いころに調布の京王多摩川のスーパーなどで見かけることのあったあの人の内面にあったものへの想像もかき立ててくれる。
それに、なんといっても、2泊3日のおかあさん役でその家に行った奥山佳恵さんというタレントさんがまたいい。女の人らしく(偏見かもしれないが)、目の前の現実を素朴に直視し、小さなところからでも、ひとつひとつ、少しずつよい方向へもっていこうとし、そうすることが、実は親子の気持ちの素直な交流を引き出す最善の策であることを教えてくれる。
いや、いい番組。何回、眼鏡の奥に指をもっていったかわからない。
と思っていたら、今度はNHKで満州開拓団の人たちのドラマをやっていた。ふだん、ドラマはまったく見ない。前にも書いたが、近ごろはドラマの役者さんたちが現実の人たちの内面を表現しようとするのではなく、逆に、生活の実体験に乏しくなった現代の人たちがドラマの役者さんたちの行為やふるまいをまねているような傾向を感じだしたので、まったく見ない。でも、おとといは「満州」というだけで見てしまった。すると、そこに描かれている登場人物の内面ではなく、おそらく現実にはなにも知らないだろうに「満州」の時代の人たちの内面をなんとか表現しようとしている若い役者さんたちの姿が涙腺をゆるめる。
やれやれ……なのだが、おかげで「年取ると涙腺がゆるんで」のメカニズムをあらためて考えさせてもらった。おそらく、これは年寄りの照れ隠しの表現なのだろう。人体の老化のメカニズムのせいにすれば、さらりとそこを通り過ぎることができる。でも、現実に年取って涙腺がゆるむ背景にあるのは、人体の老化のメカニズムというより、むしろ経験や体験、つまり共感の手がかりの蓄積なのではないかと思う。
わたしも家族がよく入院して親戚の家にあずけられていたころ、その家の祖父に買ってもらった『ぼくら』だったか『冒険王』だったかをしばらくだいじにしていたことがあった。わたしの息子も先っちょに大きな穴のあいた靴をはいて学校に通いながら、不如意な父親にけなげににこにこと笑っていてくれたことがあった。それに、息子だけでなく、娘たちも、母親を亡くしてどうしていいかわからなくなりながらも素直にふるまうことのできない父親を前にして、じっとひとりひとりで自分の内面と向き合い、自分の生きかたを考えてくれた。そういや、わたしも子どものころには、親子でいっしょに暮らす農家の友だちを見ながら、ひとりで過ごすことが多かったので、あのおとうさんが言うこともわからないではない気がするし、奥山さんの姿も、なにより同じ目黒区出身の人を思い出させてくれた。それに「満州」も、わたしにとってもまったく知らない世界だが、それでも大平原に立つ役者さんの姿を見ると、父親の姿がよみがえってきた。
もしかすると、涙腺は人体の加齢現象ではまったくゆるんでいないのではないか、とすら思える一夜の体験だった。
ずっと前から思っていたこと。メディアを見ていても、誰も言わないから、よほど少数派の思いなのかもしれないが、またぼそぼそと書いておこう。
いまの防衛相がバリバリのやり手大臣かどうかについては、まあ十中八九以上、みんなの意見は一致するだろう。だけど、わたしがずっと疑問に思っていたのは、そんな防衛相を国会で追及していた人、自衛隊出身の議員さんのことだ。なんであんなことをするのだろう、といつも思っていた。
自衛隊の人というのは、国になにかがあったら命をかけなければならない。有事というのは、いつ起こるかわからず、いま底抜けに平和だからといって、5秒後に起こらないとはかぎらない。で、起こったら、防衛相は最高司令官ではないが、その下あたりに位置する司令官なので、自衛隊員は防衛相の命令で命をかけなければならない。そのとき、ちぇっ、なんでえ、あの、先輩がボロクソに言っていた大臣の命令で死ななきゃならないのかよ――と思ってしまう後輩隊員が出てくる可能性があるとしたら、不憫に思わないだろうか。
かりにわたしが国会議員になった先輩自衛隊員だとしたら、追及しない。追及する必要があると思ったとしても、自分ではしない。後輩も見ているかもしれない国会では、情報提供やなにかを通して、裏方として応援や手伝いはするにしても、表立った追及はほかの議員にまかせる。後輩たちが有事に直面したときに上記のようなシチュエーションが生じる可能性があるとしたら、後輩たちの頭のなかにある司令官のイメージを地に落とすようなことは、自分ではやらない。
平和を前提とする一般の企業などでは、指導者が不適切と判断されたときに、時間をかけて経営陣の交代を求めるようなことをしてもよいだろう。でも、自衛隊や軍隊というのは、世のなかで唯一、その平和というものを前提とせず、なにかあったらただちに、そのときの指揮官を是としようが非としようが、その号令一下、機能しなければならない組織だ。いくら民主主義の世のなかといっても、あの大臣はダメ大臣だから命令に従わない、とひとりひとりの隊員がばらばらに判断していたら、存在意義そのものがなくなる。
そして、いまも空爆のやまない南スーダンに自衛隊員がいるように、潜在的に危険な状況と直面している隊員たちはいる。それなのに、かりにやめさせるまでだとしても、ああいうことをしていいのだろうか。あの自衛隊出身議員さんは人のよさそうな議員さんなので、もしかしたら「党利党略」にのせられているだけなのかもしれない。だとしたら、人の命よりも党利を優先する党のようにも思え、原発を管理する能力もないのに管理しているふりをして、その利益にばかりたかってきた党だから、もしかすると、防衛力についても、真剣に考えているふりをしているだけではないのかとも思えてくる。
ともかく、いまの大臣を能天気なおっさんと見る人は多いかもしれないが、わたしには、なにも能天気なのは大臣だけではないように思え、日本における防衛論議にいちばん欠けているものがあぶり出されているようにも思える。この問題も、一見単純そうに見えて、実はわたしたちひとりひとりが自分の内面をふり返ってみなければならない問題を含んでいるように思える(遠い夏の日に、南方の海に散った、会ったこともない伯父のことを考えても、そう思える)。
週刊メールマガジン『米国政府情報』(右のバナー)第45号「エアフォースワンは時速何キロで飛ぶ?」は、本日17:30配送予定です。
野田さんは首脳会談の席でオバマさんから会談後のことを教えられていたのでしょうか。
ホワイトハウスの発表情報を信用すると、オバマさんは野田さんと会って、いっしょに記者会見をやった翌日の5月1日16:30にバイデン副大統領といっしょにパネッタ国防長官と打ち合わせをしたことになっています。で、次に公式に発表されているスケジュールが、さらにその翌日の5月2日10:40の「アンドルーズ基地到着」です。この間、18時間10分。そのあいだにオバマさんはアフガニスタンまで行って、米軍兵士の前であいさつをして、アフガニスタンのカルザイ大統領とも戦略協力協定を締結してきたことになります。
で、不思議に思ったので、ちょっと調べてみたのですが、ワシントンとアフガニスタンの距離はこのページではかるとだいたい1万700kmくらいでしょうか。オバマさんが乗るエアフォースワンの最大巡航速度はこのページで見ると818km/hになっています。とすると、全行程を最大巡航速度で飛ばしたとしても、所要時間は1万700÷818=13.080...ということになります。片道です。なのに、オバマさんはパネッタ国防長官と打ち合わせを始めた時刻から18時間10分後には、アフガニスタンまで行ってワシントンDCの近くのアンドルーズ基地に戻ったというのです。
エアフォースワンには特別最大巡航速度のようなものもあるのでしょうか。それとも、エアフォースワン以外に乗ったとか。隠密行動のときは、アンドルーズ基地の軍人も関係者以外は事前に発着の情報を知らされないというので、事実はよくわからないのでしょうが、それにしても、日米会談ウィークになると思っていた1週間がすっかりアフガンウィークになったのでありました。
なお、外務省からも仮訳が出ていますが、日米共同声明については、このメールマガジンにも全訳を載せておきました。
























